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カテゴリ:私説法然伝( 42 )


2018年 07月 14日

私説法然伝42

『私説法然伝』(42)王家と平家の時代⑦

 先月号では藤原信頼のクーデター・平治の乱の始まりについて書きました。今月号はその続きについて書きます。

【内大臣三条公教(ないだいじんさんじょうきみのり)卿は信西入道とも親しく、勤勉実直な政務態度で鳥羽帝からも信頼を得ていた人である。三条公教卿は藤原信頼派の専横に危機感を抱き清盛と協力して、藤原信頼派打倒を目指す事になる。清盛は三条公教卿と手を結ぶことで「大義名分」となる「玉体(ぎょくたい)」を押さえる事を目指したのである。三条公教卿は二条天皇親政派である藤原経宗(ふじわらのつねむね)と藤原惟方(ふじわらのこれかた)と接触し、協力を得る事に成功する。二条天皇親政派は反信西入道派ではあったが、反信西入道という目的の為に藤原信頼派と結んでいただけに過ぎず、目的が達成された今は藤原信頼派の専横には困り果てていたからである。こうして反藤原信頼派が形成された。三条公教卿らは「玉体」=二条天皇を内裏から平氏一門の本拠地の六波羅館へ行幸として移す事を計画する。十二月二十五日の夜、藤原惟方は仁和寺に居た後白河帝に計画を告げ脱出させる事に成功した。そして二条天皇も内裏を脱出し六波羅館へと移った。この事はすぐに公卿らに知らされ、続々と清盛の元へ公卿らが集まることになった。そこには藤原摂関家の忠通卿の姿もあった。藤原信頼派の追討の宣旨も下され、平清盛ら平氏一門の軍勢は名実共に「官軍」となった。二条天皇・後白河帝らの六波羅への「行幸」を知った源義朝は藤原信頼卿を「日本第一の不覚人」と罵ったと言う。源義朝らは軍勢を率いて出陣することになるが、この時点ですでに勝敗は決していたのである。義朝の軍勢は平氏の軍勢の前にあえなく崩壊し、藤原信頼卿と藤原成親卿は仁和寺の覚性法親王(かくしょうほっしんのう)の元へ出頭し、藤原信頼卿は死罪となり、平重盛の義理の兄である成親は温情からか解官(げかん)(役職の罷免)だけで済まされた。義朝は逃亡し尾張で殺害され、その息子である頼朝も捕らえられてしまう。本来ならば頼朝も殺害される可能性があったが、助命される。この判断が後の平氏一門の命運を左右する事となる。平氏一門は功績により知行国が五カ国から七カ国に増えた。政治の実権を握った藤原経宗と藤原惟方ら二条天皇親政派であったが、後白河帝への「嫌がらせ」を行い、激怒した後白河帝の命により捕らえられ、失脚する。有力な院の近臣達が一掃され、残ったのは平氏一門、つまり平清盛ただ一人であった。】 

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by hechimayakushi | 2018-07-14 17:32 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 06月 14日

私説法然伝41

『私説法然伝』(41)王家と平家の時代⑥

 先月号では平清盛と新たな政治対立について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【後白河院政派と二条天皇親政派の対立構造は、それぞれの院の近臣同士の対立であり、それは新たな軍事勢力の協力が必要となった。二条親政派の筆頭となっていたのが二条天皇の伯父でもあり後白河帝の従兄弟にもあたる藤原経宗(ふじわらのつねむね)卿であった。ただし運と成り行きで公卿となったような経宗卿であり、実力の無さは本人も自覚していたのか、信西入道の政治には入り込む事はしなかった。信西入道の政治体制に転機が訪れたのが、後白河帝自らが引き上げて育てようとした藤原信頼(ふじわらののぶより)卿の台頭である。元は鳥羽帝の近臣の子で、奥州藤原氏とも婚姻関係を持ち、武蔵守として東国での勢力を持ち、特に東国での実効支配を進めていた源義朝(みなもとのよしとも)への影響力は大きかった。藤原信頼卿は若くして公卿へと進み、信西入道と対立することになった。そこで反信西入道派を藤原経宗卿と藤原信頼卿らが形成することになったのである。こうして後白河院政派と二親政派の対立構造は信西入道派と反信西入道との対立という構造になり、それぞれが平氏一門と源氏一門という軍事力を擁する事になり、その対立の緊張度は日に日に高まっていったのである。
平治元年(一一五九年)十二月九日の夜、平清盛らが熊野参詣で京の都を留守にしている隙きを狙い藤原信頼卿は軍勢を使い院の御所であった三条殿を襲撃する。信西入道は危機を察知して逃亡に成功したが、後に土中に箱を埋めた中に隠れているところを発見され殺害される。信西入道の息子等は捕縛され配流されてしまう。後白河帝は二条天皇と共に軟禁状態におかれ、反信西派グループによるクーデターは成功したかのように見えた。信西派であり最大軍事力を持つ平氏一門の棟梁である清盛は、このクーデターの情報を翌日には知ることになった。清盛はここで一つの決断を迫られる事になる。京へ戻るか、逃げるかである。清盛は京へ戻る事にした。京へ戻れば清盛も殺害される可能性はあった。事実として軍勢を率いて東国より京へ参陣した源義朝の子の源義平(みなもとのよしひら)は清盛暗殺を藤原信頼卿に進言している。しかし藤原信頼卿は姻戚関係にある清盛を取り込む事を考えていた。清盛の京への帰還の決断は成功したのである。そして清盛は藤原信頼卿に恭順の意を示し、表向きは藤原信頼卿のクーデター体制に従う事にしたのである。清盛の率いる平氏一門は軍事力では藤原信頼派を圧倒していた。源氏一門の主力は東国にあり、クーデターの為の兵力は隠密行動の為に最小限に抑えられていたからである。清盛は虎視眈々と反撃の機会を伺う事になるのだが、その為には「大義名分」すなわち「玉体」を押さえ必要があった。そこで清盛はある勢力と手をにぎる事にしたのである】

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by hechimayakushi | 2018-06-14 14:13 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 06月 14日

私説法然伝40

『私説法然伝』(40)王家と平家の時代⑤

 先月号では平忠盛とその子の清盛について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【平清盛は父・忠盛の築き上げた基盤を受け継ぎ、軍人としても政治家としてもまさに「日本一」に相応しい功績を上げる事になるが、その人生は順風満帆というわけではなかった。実母は諸説あるが、通説となっているのは白河帝に仕えた女房で、清盛が幼い頃に死亡していると思われる。忠盛の正室は院の近臣・藤原宗兼(ふじはらのむねかね)の娘の宗子であり、宗子の子である家盛(いえもり)がいた。清盛が平氏一門の棟梁となれる可能性は低かったらしい。しかしながら、幼い頃の清盛は白河帝の寵愛を受けた祇園女御(ぎおんにょうご)の庇護下で育てられている事や、当時から白河帝の落胤(らくいん)ではないかという説もあったらしく、それらの影響があったのかは不明であるが、異母弟の家盛が若くして亡くなった事もあって清盛が伊勢平氏一門の棟梁となった。
清盛の人生を大きく変える事になったのが、平治の乱である。後白河帝と信西入道による保元の新政に不可欠となったのが新たな安全保障体制である。すなわち京の都の治安維持と荘園の統制ならびに各勢力への牽制と統制の必要性に迫られていたのである。その為には北面の武士の最大勢力であった平氏一門の軍事力に頼らざるおえなかった。信西入道は清盛との結びつきを強め、厚遇する。平氏一門はこの時点で既に五カ国の受領となっており、その勢力は急速に拡大していった。後白河帝の政権は信西入道を中心とした政治体制であり、その政治体制の権力の保持の要となったのが平氏一門の軍事力であったのである。そこに新たな政治勢力が登場する。鳥羽帝の寵愛を受け、鳥羽帝から莫大な荘園を相続して当時の最大勢力でもあった美福門院得子(びふくもんいんなりこ)の勢力である。美福門院は信西入道との「佛と佛との評定」によって美福門院の養子である東宮・守仁親王を擁立し、二条天皇として即位させる。もともと後白河天皇即位は守仁親王の「中継ぎ」としての手段であり、信西入道としても美福門院の要求を断る事はできなかった為である。こうして後白河天皇は退位し後白河上皇となり、後白河院政派と二条親政派とが分かれ対立構造が出来上がってしまったのである。その対立の中で清盛は非常に難しい舵取りを迫られるのであった。】

後白河帝による保元の新政は信西入道と平氏一門による協力体制によって進められてきましたが、美福門院派=二条親政派の登場によって清盛以下平氏一門は難しい立場となっていくのです。

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by hechimayakushi | 2018-06-14 14:11 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 04月 14日

私説法然伝39

『私説法然伝』(39)王家と平家の時代④

 先月号では平安時代末期における各地方の勢力の動きなどに関して書きました。今月はその同時代の動きについて書きます。

【平忠盛は白河帝の御世から「北面(ほくめん)の武士」として仕え、白河帝からの信任厚い「院の近臣(きんしん)」と呼ばれる軍事貴族であった。藤原頼長卿も認めるほどの有能な官吏でもあり、白河帝の御世から鳥羽帝の御世に移り変わっても、そのまま院の近臣として仕えていた。天承(てんしょう)二年(一一三二年)鳥羽帝の為に得長寿院(とくちょうじゅいん)千体観音堂(三十三間堂)の造営の際に、千体観音像を寄進した功により殿上人(てんじょうびと)(昇殿を許される身分)となった。鳥羽帝が寵愛した美福門院得子の従兄弟であり院の近臣の筆頭であった藤原家成卿の従兄弟が忠盛の妻の宗子であった関係で、家成卿と親密な関係を築いていく。長承二年(一一三三年)肥前国の神崎荘の荘園の預所(あずかりどころ)(管理者)であった忠盛は、宋船との交易を鳥羽帝の権勢を背景に太宰府を排除して独自に行い、保延元年(一一三五年)には瀬戸内海の海賊の追討を成功させ、降伏した海賊を「家人(かじん)」として勢力下に組みこむなど着実に「西方」での勢力を伸ばしていった。それは西に目を向けていた鳥羽帝の思惑もあり、宋との交易の増加もあり、忠盛個人の力だけでなく伊勢平氏全体の力の増大化につながった。忠盛の残した力を引き継ぎ伊勢平氏の棟梁となったのが忠盛の子の清盛(きよもり)である。清盛には二つの目標があった。父の忠盛は「武士」としては異例の殿上人にまでなったが、公卿(くぎょう)(政治を司る太政官の最高幹部)となる一歩手前で亡くなってしまう。一説には忠盛は美作守などを歴任した後に播磨守という受領(ずりょう)として最高位まで昇り、公卿への昇進は間違いなしと言われていたが、清盛の郎党(配下の者)が祇園社の神人と小競り合いを起こした事で祇園社の本寺である比叡山延暦寺から忠盛・清盛親子の配流を求める訴えが起こったために公卿への昇進が叶わなかったとされる。
清盛は父の悲願とも言えた「公卿」を目指すことが一つの目標であった。そしてもう一つの目標は、父忠盛から引き継いだ宋との交易を通じて清盛が行うことになる経済の改革・革命である。】

軍事貴族、つまり「武士」と呼ばれた伊勢平氏は「西方」つまり京都から瀬戸内海を通り九州そして宋へとつながる「海の道」を押さえることでその勢力を拡大することに成功しました。清盛はその力を使い一族の悲願、または「武士」としての悲願を成就することになるのです。

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by hechimayakushi | 2018-04-14 23:59 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 03月 13日

私説法然伝38

『私説法然伝』(38)王家と平家の時代③

 先月号では後白河天皇と信西入道の目指した政治の動きに関して書きました。今月はその同時代の動きについて書きます。

【保元(ほうげん)の乱の勝利者は後白河天皇と信西入道であると言えるが、その勝利の決め手となったのが有力軍事貴族であった平清盛(たいらのきよもり)・源義朝(みなもとのよしとも)らであった。院政期において活発化した貴族の軍事化と武士団の発展であるが、それは各地方での経済活動の活発化に伴ったものである。奥州、つまり現在の東北地方は前九年(ぜんくねん)の役・後三年(ごさんねん)の役という戦乱を経て奥州藤原氏が支配する土地となっていた。その影響は現在の北海道南部まで及んでいた。当時の北海道には擦文(さつもん)文化人とオホーツク文化人が定着しており、奥州藤原氏はそれらの人々と津軽海峡を通じて人や物の交流を行なっていた。オホーツク文化人はアムール川流域の人々とも交流があり、それをたどれば当時の中国北部の覇権を握った女真族・金王朝との繋がりも伺える。当時の奥州は大陸との交流があったのである。それは様々な物品をもたらした。そして奥州で算出される多数の金、増加した摂関家の荘園地。藤原頼長卿が奥州藤原氏の主であった藤原基衡(ふじわらのもとひら)に荘園からの年貢の徴収と金の献上を増やすように求めたという。基衡はそれに応じて、さらに馬や漆などを摂関家に送り、「中央」との結びつきを強めた。さらにその交流が日本海海運などの物流の発展を生み出し、奥州に京の都の文化が流入し、絢爛な平泉の文化が生み出されたのである。
 院政期末というのは各勢力の独立独歩の発展の時代である。奥州藤原氏はその代表格であり、先に登場した神人・悪僧(じにん・あくそう)もそうであり、様々な職能人のギルド的集団、経済の発展に伴い増えた金融業者など、それぞれが独立独歩の発展をとげたのである。それに対して統制を強めたいのが「中央」、つまり摂関家であり天皇=王家であり、まとめて呼称するならば「朝廷」となる。
 北方における大陸との繋がりが奥州藤原氏にあったならば、「中央」から見てもう一方の交流点が西方・九州からの交流となる。白河帝により造営された鳥羽離宮は、桂川と鴨川のすぐ側にあった。京都南郊にあった巨椋池や宇治川にも近く水郷地帯となっていた。この鳥羽離宮の半分は池になっていた。桂川・鴨川は合流して淀川となり、大阪湾へと繋がっている。そして瀬戸内海へと繋がっていたのである。鳥羽離宮は海上交通の要所であったのである。この海の道は宋との交流の道であった。白河帝の後の治天の君であった鳥羽帝がこの海上交通を押さえる為に重用したのが伊勢平氏の棟梁であった平忠盛(たいらのただもり)であった。】

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by hechimayakushi | 2018-03-13 09:58 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 02月 21日

私説法然伝37

『私説法然伝』(37)王家と平家の時代②

 先月号では保元元年の後白河天皇の新政の開始と信西入道について書きました。今月はその同時代の動きについて書きます。

【保元の乱において、後白河天皇が勝利者となれたのも信西入道の力によるところは大きい。後白河天皇の乳母は信西入道の二番目の妻である。鳥羽法皇崩御の後はその葬儀を取り仕切り、保元の乱に至る藤原頼長卿らが荘園から兵を集めることを禁止した後白河天皇の綸旨(りんじ)(天皇の命により発行される命令書)等の一連の措置を取り仕切ったのも信西入道と言われている。保元の乱により反対派を一掃することに成功した後白河天皇・信西入道であるが、後の天台座主であり関白藤原忠通卿の息子である慈円は『愚管抄(ぐかんしょう)』において「日本国ノ乱逆(らんぎゃく)ト云ウコトハ起リテ後、武者ノ世ニナリニケルナリ」と書き記したように、この保元の乱を契機として武者、つまり軍事力によって政治的な決着をつける時代へと転換した。そしてこれが後の信西入道の命運を決めることに繋がる。
 信西入道は藤原頼長卿と同じく、実権を握ると政治的改革を始めた。先に記した保元元年令を打ち出し、次々と改革の政策を実行していく。具体的には荘園の整理である。記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいしょ)を新たに設置し、強権的に各地の荘園の整理が行われた。それにより荘園の支配体系が天皇=王家を頂点とした統治下にあるものとされた。荘園の整理と並んで各寺社の統制もなされた。神人(じにん)と呼ばれる神社に属する神事や社務の補助・雑務に当たった人々はこの時代では、神社の権威を背景に様々な利権を獲得しており、警護なども担った事から武装もしており、一大勢力となっていた。寺院においては悪僧・僧兵の勢力が神人と同じく拡大しており、強訴(ごうそ)を繰り返し、金融活動を繰り広げていた。寺社仏閣勢力の統制はかつて絶大な権勢を誇った白河法皇ですらなし得なかったことである。「天下三不如意(てんかさんふにょい)」と呼ばれる①鴨川の水②双六の賽(さい)③山法師だけは白河法皇の権勢を持ってしても何ともならなかったのであった。鴨川の水とは氾濫を繰り返していた鴨川の流れ、双六の賽とはサイコロの目のことであり、これらは自然現象や運の事である。山法師とは寺社仏閣の勢力のことである。後白河天皇と信西入道は保元元年の新政によって寺社仏閣の勢力の統制に乗り出したのである。下賀茂神社・上賀茂神社など八社の神人の定員を定め名簿の提出を義務化した。そして比叡山延暦寺や園城寺の悪僧等の活動を抑制した。これにより天皇の名において寺社仏閣の勢力は統制され神仏に準ずる存在と位置づけられた。さらに後白河・信西政権は翌年に三十五ヵ条の新制で官人・職能集団のあり方を定め、検非違使(けびいし)庁の再編と治安対策の強化を行った。そして内裏(だいり)の再建を行った。天皇=王家を頂点とした国家の再編と新たな構築を行ったのである。一見するとこれらの改革は順調のように思えたが、全てが後白河・信西の思い通にはならなかった。】

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by hechimayakushi | 2018-02-21 16:20 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 01月 12日

私説法然伝36

私説法然伝』(36)王家と平家の時代①

 先月号では法然上人の模索そして『観経疏(かんぎょうしょ)』へとつながる流れについて書きました。今月はその同時代の動きについて書きます。

【法然上人が経蔵にて籠もられ極楽へのの道を求められている時、世の中もまた模索の時代であった。保元元年(ほうげんがんねん)(一一五六年)の争乱によって藤原摂関家の権勢はほぼ失墜した。その後に台頭するのが軍事貴族、つまり武家である。後の世に院政期と言われる時代は突如として始まったわけでもなく、突如として終わったわけでもない。武家の時代となる、と言ってもある日突然に始まるわけではないのである。保元元年の争乱の後、徐々に変化が始まっていった。
 保元の乱の最終的な勝利者は後白河天皇であった。後白河天皇は鳥羽法皇と待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)との間に生まれた六番目の子である。兄である崇徳上皇と「治天の君」の座を争ったのが保元の乱であったが、後白河天皇は治天の君として何をしようとしていたのだろうか?保元元年九月十八日保元元年令と呼ばれる七か条の宣旨を下した。第一条には「九州之地者一人之有也、王命之外、何施私威」ある。九州とは全国の事であり、全国はただ一人「治天の君」のものであり、王命以外に私的な威光を示すことはできない、つまりは各地にある荘園という私的な領地も含む日本国の土地の全ては最終的に「治天の君」である後白河天皇のものであるという宣言である。これを「王土思想」と言う。長く続けられてきた「荘園整理令」の一つでもあり、後白河天皇の親政の開始の宣言でもある。この宣旨に関わったのが信西入道(しんぜいにゅうどう)である。信西入道は学者の家系の出で、元は藤原通憲(ふじわらのみちのり)と言い、幼くして父を亡くし高階(たかしな)家に入って高階通憲となりその才覚を現す。しかし高階家では学者としての出世は叶わず、院の近臣・実務官僚となりたくても当時は勧修寺流(かじゅうじりゅう)藤原家がその座を独占していた。自らの人生に失望し、出家の気持ちが芽生えた通憲は、当時日本有数の大学者と名高い藤原頼長卿とも面談している。その才覚を惜しんだ頼長卿からは出家を思いとどまるように願われるが「自分は運がなく出家の道を選ぶが、頼長卿はどうかそんな事はなさらぬよう」と伝え、頼長卿は涙を流したと日記にある。その才覚を惜しんだのは鳥羽法皇も同じであり、思いとどまるように願ったが、通憲は出家をし信西入道となった。
 しかし出家し出世の道は諦めたものの、その才覚と辣腕を振るう事を諦めたわけではなかった。出家し墨染めの衣を身に着けていても、心まで染まるつもりはない、と歌まで残している。鳥羽法皇のブレーンであった藤原顕頼没後には信西がブレーンの座に入る。そして保元元年の争乱が始まったのである。】

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by hechimayakushi | 2018-01-12 00:04 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 12月 14日

私説法然伝35

『私説法然伝』(35)極楽への道⑩

 先月号では「恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)」の『往生要集』に導かれるように法然上人は「念佛」の模索を始められたことについて書きました。今月はその続きになります。

【法然上人の模索の過程に関して『法然上人行状絵図』によると、恵心僧都源信の『往生要集』は善導大師(ぜんどうだいし)の「注釈」を「指導の書」としており、法然上人はその「注釈書」である『観経疏(かんぎょうしょ)』(観無量寿経疏・観無量寿経の注釈書)を読まれた、とある。『往生要集』から善導大師の『観経疏』へという過程ということである。しかし、その流れで後の法然上人の到達されたところである「本願念佛(ほんがんねんぶつ)」(佛の本願により往生する)へは到達できるのであろうか?おそらく一本道では到達できなかったであろう。法然上人は天台の教えをはじめとして諸宗の教えに通じておられた。『往生要集』だけが「先達の書」ではなかったと考えられている。念佛者であった永観禅師(ようかんぜんじ)は『往生拾因(おうじょうしゅういん)』においてひたすら称名の念佛こそが勝れているとし、画僧として有名な珍海も称名は「正中の正因」としている。だがいずれも「凡夫」が「凡夫」のままで救われるということを示していない。法然上人の到達点はそこにはなかった。愚勧住信(ぐかんじゅうしん)の『私聚百因縁集(しじゅひゃくいんねんしゅう)』には法然上人三十三歳の時に専修念仏の道へ進まれたとある。永万元年(一一六五年)の頃である。法然上人が『往生要集』を始めとして、様々な「念佛の道」に出会われ、そして『観経疏』と本質的に出会われていったのが法然上人三十三歳ごろであったのではないだろうか?それはまだ到達点とは言えないにしろ、法然上人に示された「極楽への道」であったのではないか。経蔵に籠もり苦しみの中のでの模索であったが、確かに法然上人は一つの到達点へと近づいていったのである。】


法然上人は『法然上人行状絵図』に記された「過程」でだけではなく、実際には様々な書物などを通して模索を重ねられたと言えます。永観禅師『往生拾因』などはその代表的なものだと言えます。そして善導大師の『観経疏』という圧倒的な存在とも言える書物に立ち向かっていかれた、と言うと大げさかもしれませんが、法然上人にとってはまさに人生をかけて「極楽への道」を歩まれていたのがこの時期であったのです。

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by hechimayakushi | 2017-12-14 23:16 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 11月 11日

私説法然伝34

『私説法然伝』(34)極楽への道⑨

 先月号では「恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)」という方の書かれた『往生要集(おうじょうようしゅう)』について、また源信の始めた念佛結社「二十五三昧会(にじゅうござんまいえ)」と「臨終行儀」などについて書きました。今月はその続きになります。

【恵心僧都源信が目指した「念佛」とは一体何であったのだろうか?源信の考えに従って作られた『往生要集』と「二十五三昧会」の二つがその両輪である。そして源信は念佛の中で「理観(りかん)の念佛」(念佛を通して空を覚り三昧に至る)を理想とし、それが出来ない者は「色相観(しきそうかん)の念佛」(阿弥陀佛の姿を想い描く)を行い、それが出来ない者は阿弥陀佛に深く帰依して極楽浄土へ往生したいという「念」(菩提心)を元にして称える「称名(しょうみょう)の念佛」があるとした。源信にとっての念佛はあくまで天台宗の思想に基づくものであり、称名の念佛はあくまで付随的なものであり、天台的な捉え方であったと言える。法然上人もまた『往生要集』を読んだ。後に『往生要集』に導かれて浄土佛教の道へと入ったと述べられている。理観の念佛を至上とする『往生要集』と後の法然上人の思想は相容れない。しかし『往生要集』の「思想」が持つ構造、「難」から「易」というところに着目されたのだと考えられる。常識的に考えれば、簡単な事からはじめてより難しい事を習得していくことが一つの「道」である。しかし法然上人はそこに疑問を持たれたのだと言える。理想的だが難しく実現不可能な方法を源信が伝えたかったのではない、もっと根本的に違う何かが有るのではないか?と法然上人は考えられたのではないだろうか?そして『往生要集』をスタートとして、法然上人は様々な「念佛」を模索されていくのである。】

法然上人は長い時間をかけて「念佛」とは何か?を模索されることになるのですが、そのスタートラインと言えるのが『往生要集』となったのです。法然上人は『往生要集』とそれに基づく「二十五三昧会」で行われている事に着目されたのではなく、源信僧都の思想の展開の構造に着目されていたことが大切なポイントだと思います。そして法然上人は『往生要集』の構造理解を通して浄土佛教というもの、または佛教全体を見直されようとしていたのではないでしょうか?

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by hechimayakushi | 2017-11-11 16:36 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 10月 14日

私説法然伝33

『私説法然伝』(33)極楽への道⑧

【恵心僧都源信、寛和(かんな)元年(九八五年)に『往生要集(おうじょうようしゅう)』三巻を撰述された。この書物がどうして日本人の精神性に影響をあたえるほどの書物であったのか?まずは『往生要集』がどのような書物であったのかをまとめる必要がある。『往生要集』は十門つまり十の構成となっており、約百六十以上の経典などを選び出し、引用し、文章を構成している。その構成は厭離穢土(えんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)・極楽証拠・正修念佛・助念方法・別時念佛・念佛利益(ねんぶつりやく)・念佛証拠・往生諸業・問答料簡の十の章段となる。その内容を簡潔に言えば「この迷いの世界を離れて阿弥陀佛の世界=西方極楽浄土に生まれるには正しい念佛が必要である」ということになる。今日において『往生要集』と言えば「地獄」の描写が最も有名である。これは厭離穢土の章段に仔細(しさい)に記されている。苛烈(かれつ)極まる地獄の姿と対照的に西方極楽浄土の素晴らしさが強調され、そして念佛によって西方極楽浄土へと往生する、その念佛とはどのようなものかと源信は『往生要集』に全てを集約したのである。この書物が当時の人々に与えた影響は大きく、特に「地獄」のイメージを日本人に植え付けたのは『往生要集』によるところが大きい。また、日本のみならず当時の宋の国へと送られ絶賛されている。
 そして『往生要集』を基として「念佛結社」が作られるようになった。「念佛結社」とは東晋の僧侶慧遠(えおん)によって結成された「白蓮社(びゃくれんしゃ)」がそのルーツと言えるもので、同士が集まって念佛の実践を誓い、念佛を行うものであった。これを中国における浄土佛教の始まりともされている。『往生要集』の中では「臨終行儀(りんじゅうぎょうぎ)」として記された念佛の実践方法を基にして、葬送儀礼を追加したものが源信の打ち立てた念佛結社であり、それを「二十五三昧会(にじゅうござんまいえ)」と言う。この「二十五三昧会」を元に各念佛結社が作られていったのである。それはつまり念佛の実践が広がり、根付いていたったことと言える。 
この「二十五三昧会」とは、源信とその法友慶滋保胤ら二十五名の僧侶が横川首楞厳院(よかわしゅりょうごんいん)にて毎月十五日羊(ひつじ)の時刻、午後二時ごろ集まり、法華経の講義の後に回向と起請文が読まれ、その後は翌朝の辰(たつ)の時刻つまり午前八時までひたすら念佛三昧を目指すというものであった。そして結社の構成員・結衆は互いに扶助し規律を守り、病を得た者がいれば往生院という阿弥陀佛像が安置された堂に移し、病人の看護をし、西方に向けられた阿弥陀佛像の後ろに病人を置き、阿弥陀佛と病人を五色の旙(はた)(五つの色の布)で結び、西方極楽浄土へ往生する想いをこらさせる。往生を遂げた者は同じ墓所へ埋葬し、念佛会(ねんぶつえ)を行ったという。】

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by hechimayakushi | 2017-10-14 20:34 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)