へちま薬師日誌

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カテゴリ:私説法然伝( 49 )


2019年 02月 14日

私説法然伝49

『私説法然伝』(49)回心回天④

 先月号では法然上人の人生において一番重要な出来事の一つである「回心」について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【法然上人の人生は「回心」によって大きく変わった。それは日本の歴史を変えていくことでもあった。だが、それはまだ先の話である。
 法然上人は約三十年という長い月日を過ごした比叡山を降りることにした。この一点からわかるのが、法然上人は回心によって大きく変わられた事は「事実」だということである。ただし、その時の法然上人の思いや考えがどのようなものであったのか、定かでない。本願念佛の教えを広く世に広めるためであったのか?それとも何か他の目的があったのであろうか?少なくとも何かの理由と意図があったには違いないのである。ただ念佛の日々を送るだけなら比叡山を降りる事はないはずである。山を降りるということは、比叡山延暦寺の僧侶として保証されている人生を捨てることになる。そうまでしてなぜ山を降りたのか?
 まず思想的に師僧である叡空の下には居づらくなったのかもしれない。黒谷という比叡山の中でも隠遁の地であっても、法然上人はもう居場所が無くなってしまったのではないか?阿弥陀佛の本願によって救われる「他力」という思想の法然上人が、方法論の違いがあれども、いずれも「自力」の思想の世界であり、相反する思想の法然上人が居ることができなくなった、そう考えるのは不自然ではないだろう。ただし、それだけで山を降りるのも不自然でもある。
 法然上人の回心は到達点でもあったが、出発点ともなった、と考えると、山を降りなければならないというよりも、山を降りたくなったのかもしれない。「他力」というのは何もしなくても救われる事でもあるが、それを自覚した時にはじめて開眼され始まる境地と状況がある。救われている真実への報恩感謝の念佛というものである。法然上人はその報恩感謝の念佛の第一歩として、山を降りる事にされたのかもしれない。籠山すること約三十年、回心と同じく承安五年法然上人は新たな一歩を踏み出される事になった。】

 法然上人がついに比叡山延暦寺を下りられる事になりました。諸説ありますが、決して後ろ向きな理由だけはなく、前向きな理由があったことでしょう。そして大事な事は山を下りられた法然上人がどこへ向かわれたのか、ということです。


by hechimayakushi | 2019-02-14 01:59 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2019年 01月 15日

私説法然伝48

『私説法然伝』(48)回心回天③

先月号では法然上人の出会われた『観経疏』の著者の善導大師について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【法然上人は『観経疏(かんぎょうしょ)』の「散善義(さんぜんぎ)」という巻にある「一心専念弥陀名号(いっしんせんねんみだみょうごう) 行住坐臥(ぎょうじゅうざが)不問時節久近(ふもんじせつくごん) 念念不捨者(ねんねんふしゃしゃ) 是名正定之業(ぜみょうしょうじょうしごう) 順彼佛願故(じゅんぴぶつがんこ)」(一心にもっぱら阿弥陀佛の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問わず、念々に捨てざる者、是れ正定の業と名づく。彼の佛の願に順ずるが故に)の一節を読まれた時に「回心」(心を改める事)されたと伝記にある。法然上人は三度にわたって『観経疏』を読まれ、三度目にして回心されたのである。つまり、三度のうちの二度での読み方と、三度目の読み方に変化があったのである。『観経疏』は『観無量寿経』の注釈書で、四つの巻で成り立っている。第一巻となる「玄義分(げんぎぶん)」において『観無量寿経』という経典の意義・エッセンスが述べられている。「散善義」は第三巻目にあたる。その中の一節・一文に法然上人の人生、または日本の歴史を塗り替えるきっかけとなる内容があった。この一節は「順彼佛願故」以外だけを読むと「常に念佛する人は必ず往生する」という自分の力で往生するのだという意味合いになる。そこに「順彼佛願故」の一文が加わると、「彼の佛の願に順ずる」=「願いが成就して阿弥陀佛となった佛の力によって、念佛する人は必ず往生する」という意味にになる。
 自分自身の力やはたらきで往生する、という「分別」の中で法然上人は『観経疏』を読まれていた。三度目に読まれた時にこの一文に込められた大きな意味に気がつかれた。自分の力やはたらきではない、阿弥陀佛という佛の力・はたらきによって往生する、つまり「他力」という真理に気がつかれたのである。阿弥陀佛とは法蔵菩薩が全ての衆生を救うという願い=本願(第十八願)を成就して佛となった佛。そこに法然上人自身が救われたいという願いも入っている、そしてその願いは成就されている、そう確信されたのだろう。その確信を回心と言う。また言い換えれば「分別」を越えたのである。法然上人四十三歳の年、承安(じょうあん)五年(一一七五年)春の事だったという。】

 法然上人が「回心」された承安五年(一一七五年)は法然上人が浄土宗を開かれた「立教開宗の年」ともされています。法然上人は回心されてからどのような人生を歩まれていかれたのでしょうか?


by hechimayakushi | 2019-01-15 00:12 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 12月 13日

私説法然伝47

『私説法然伝』(47)回心回天②

 先月号では法然上人の目指すものについて書きました。今月号はその続きについて書きます。

【法然上人が思い悩まれていたのは当然のことであった。法然上人にとって、または法然上人以前の多くの人の認識では、佛教とは佛道であり、佛道とは修道であり、修道とは「できる」か「できない」かである。法然上人は「できない」と認識されていた。そして「できる」ためにはどうしたらよいのか?という思いで様々な方法や考え方を模索されていたわけである。その中で出会ったのが「念佛」であったが、これもまた「できる」か「できない」かという問題が発生してしまう。法然上人以前にインドに始まり中国、そして日本で多くの「念佛」に関する考えが生まれ、発展してきた。法然上人はそれらの考え方を学ばれ、実践されてきた中で出会ったいずれも「できる」か「できない」かという問題への直接的な解決策は明示されていなかった。そして法然上人は善導大師の書かれた『観経疏』に出会われた。
 この善導大師とはどのような僧侶であったのか?善導大師は隋の時代六一三年の生まれで、幼くして出家し、般舟三昧行(はんじゅざんまいぎょう)という精神統一による観想の念仏行をされていたと伝えれる。後に道綽禅師(どうしゃくぜんじ)に出会われ『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』の講説を聞き、道綽禅師の下で本願念佛の御教えに目覚められたという。善導大師は「できる」「できない」という念佛から、本願念佛という他力(自分の力に依らない)の念佛に目覚められた方であった。その善導大師が書かれた著書の一つが『観経疏』である。法然上人は『観経疏』を読み、悩まれたのだろう。その悩みを作ったのは恐らく「分別(ふんべつ)」というところであったのではないだろうか?私達は常に「分別」をしている。「分別」とは私達が無意識でも意識的にも行うことである。天気が良くて青空が広がっている、それを観た私達は「良い天気で空が青い」と「分別」する。「分別」してから今の天気は良くて空が青いと私達は認識する。
しかし、その日の空は私達が「分別」する前に既に天気が良くて青かった、分別しなくても天気が良ければ空も青いのである。その「事実」は意識して思考しないと気が付かないのが人間というものである。
本願念佛というものの本質もまた同じ事だと言えるのである。】


by hechimayakushi | 2018-12-13 00:07 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 11月 13日

私説法然伝46

『私説法然伝』(46)回心回天①

 先月号では日宋貿易の始まりと影響について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【新しい時代へと突入したのだ、と。その時代に生きていた人々がはっきり認識して生きていたかどうかは定かではない。今現代でもそうである。ただし、どの時代でも変革の時代には人々の思考というものはその影響を受ける事が多いのは事実であると言える。平安時代とは後の時代の人間が命名した時代の名前である。その当時の人々がそう認識していたわけではない。平安時代から鎌倉時代へと移り変わったというのも、後の時代の人間がそう認識しているだけである。当時の人々がそう感じたかどうかは定かではない。しかし確実に「世の流れ」が変化した事は当時の人々でも感じ取らざる負えなかったのではないだろうか?かつて栄華を誇った藤原摂関家の権勢も衰え、「治天の君」として絶大な権力を振るった「王家」も今や平家一門の力を頼らなければ政治体制を維持することが困難となっている。世の流れは留まることを知らずして、いつ何時変わるかもしれないものだと、人々は実感していたに違いない。それは法然上人が身を置いている比叡山延暦寺でもそうである。伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)開山以来、時代の中で、数多の僧侶が流れを変化させてきた。その中に恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)の確立した浄土佛教がある。浄土佛教という流れに出会った法然上人はこれから一つの大きな流れを生み出されることになる。承安二年(一一七二年)平清盛の築いた時代が全盛を迎えつつある頃、法然上人は四十歳となっていた。「念佛」という道を模索され続けていた、と推察される。『往生要集(おうじょうようしゅう)』によって示された善導大師(ぜんどうたいし)の『観経疏(かんぎょうしょ)』と向き合う日々であったのであろう。念佛に出会われてから早数年、ひたすら思索と実践を繰り返されていたと思われる。「念佛」こそが法然上人が求められていた道であるには違いない。しかし「確信」であったり、「納得」であったり、法然上人の思索の中で何か合点がいかない点があったのは間違いない。それは「誰もが必ず救われる道」ではなかったからだろうか。ただ念佛、というのは法然上人ならば可能であっても、誰しもが可能な道ではない。南無阿弥陀佛と称えるだけの称名念佛でも、誰もができるわけではない。そこに法然上人がたどり着くべき場所の「ヒント」があった。】


by hechimayakushi | 2018-11-13 11:35 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 10月 27日

私説法然伝45

『私説法然伝』(45)王家と平家の時代⑩

 先月号では平清盛が政権の全盛について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【後白河帝は嘉応(かおう)二年(一一七〇年)清盛のいる福原へ行幸し、宋人と会っている。その時代の日宋間の貿易の拠点は福岡であった。清盛は福原・大輪田(おおわだ)の泊(とまり)を整備し、日宋貿易の新たな拠点とすることを目指していた。後白河帝も進歩的な思考であったらしく、清盛の路線には理解を示していたという。承安(じょうあん)二年(一一七二年)に宋の皇帝考宗(こうそう)の兄の趙伯圭(ちょうはくけい)から、後白河帝と清盛に供物が届いた。そこには「日本国王に賜ふ物色、太政大臣に送る物色」とあった。これが無礼であると物議を呼ぶことになる。金に押され宋は衰えたとは言え「中華」である事には変わりなかった。そのため皇帝より「日本国王」への贈物という事であったのだ。翌年には返礼の品が贈られ、公式ではないが公的な性格を持った日宋貿易が開始されたのである。これにより清盛の狙いである宋銭の大量輸入が本格化していく。当時の朝廷=国家は「絹」を基軸通貨として扱っていた。つまり絹を基軸に物価が決まり、その物価を元に財政が行われていた。しかし宋銭の流通により、絹の価値が低下する。これにより朝廷の財政力が低下することを恐れたのが後白河帝であった。しかし世界的な経済交流の大きな流れの中で、清盛によって始められた「グローバル化」の流れを止めることは不可能であった。これが「後白河帝=王家」と「清盛=平家」の時代の全盛期であると同時に対立の始まりであったのである。一見すると安定した政権が始まったようであったが、実態としては次の争いの始まりであり、それは日本が新しい時代へと突入したことでもあった。】

 院政期というのはある日突然終わり、武士の時代が来たというわけではないと以前に書きましたが、ここまで数十年の流れを追って見ていくと、それがどういう意味かがはっきりとしてくると思います。また新しい時代というものの重要な鍵となるものが意外なものであったりするのです。ただどの時代でも必ず「経済」というものが重要な鍵となることには変わりないと言えます。特に院政期では二つの経済、荘園等を中心とした「土地」の経済と「宋銭」という新しい経済が重要な鍵となっていったのです。


by hechimayakushi | 2018-10-27 00:09 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 09月 11日

私説法然伝44

『私説法然伝』(44)王家と平家の時代⑨

 先月号では平清盛が政権の頂点となり経済改革を通じて「日本」の掌握を狙ったことについて書きました。今月号はその続きについて書きます。

【承安(じょうあん)二年(一一七二年)清盛は娘徳子を、後白河帝と滋子(しげこ)との子である高倉天皇の中宮とする事に成功する。これが事実上の後白河院政下における平清盛の全盛とも言える。この後白河帝と平清盛の両輪による政権全盛をさらに支えた両輪が、清盛の子の平重盛卿と義理の弟であった平時忠卿であった。重盛は保元の乱・平治の乱を通して父清盛を支え武功を立てた。二条帝親政下では二条帝からの絶大な信頼を受け若くして参議となる。後白河帝との関係も良好で、同じく参議として国政に関わり、清盛の後継者として軍事警察権を与えられるなど、まさに順風満帆な出世であったが、後白河帝からしたら何をするかわからない清盛よりも、数々の武功を上げた優秀な軍人でありながらも実直かつ温和な性格の重盛の方が御し易いという判断も含まれていたものと思われる。しかし歴史書『愚管抄』を書き残した慈鎮和尚慈円(じちんかしょうじえん)ですら重盛を「イミジク心ウルワシク」と書き残しているほどの人格者であり、その人柄が政権運営に大きく影響した事は間違いない。平時忠は清盛の継室の時子の異母弟であり、失脚しながらも再び政権中枢に返り咲くほどの「しぶとい」実務官僚にして政治家であった。実務官僚の中でも重要な役職である蔵人(くろうど)・検非違使(けびいし)・弁官(べんかん)の三職を兼任するなど(三事兼帯)、その実務能力は実際に優秀であった。特に検非違使という警察官僚としては特に優秀で、平清盛政権を支え続ける原動力の一つであった。
 この両名をはじめとして優秀な軍人・官僚・政治家が政権を支えるのであるが、院政を開始した後白河帝と、位人臣(くらいじんしん)を極めた平相国(へいしょうこく)清盛入道の経済改革等の独自路線、さらに摂関家や寺社勢力を巻き込んだ対立が始まるのが、承安二年という年であった。】

後白河帝と清盛という二大巨頭による政権運営は順調そうに見えましたが、日本史上初の武家出身者が太政大臣となったこと、前代未聞の試みとも言える一大経済改革と国際化路線、「平家」による大多数の知行国の独占や莫大な荘園の保有はパワーバランスの偏りを招きました。それが対立を生み出し、争いとなったのです。その争いが時代をさらに変革へと動かしていきました。


by hechimayakushi | 2018-09-11 20:22 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 09月 11日

私説法然伝43

『私説法然伝』(43)王家と平家の時代⑧

 先月号では藤原信頼のクーデター・平治の乱の顛末について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【その時、平清盛の気持ちというものはどうであったろうか?もはや「藤原摂関家」の権勢は失墜し、「治天の君」も力のある近臣を失い、平家一門に頼るしか政権運営が行えない事は明白であった。永暦(えいれき)元年(一一六〇年)にはついに参議に昇進し「武家」としてはじめて公卿となる。つまり「政権」への参加が始まったのである。平氏一門は重要な役職を握り、知行国も増加していった。二条帝の崩御により後白河院政が確立されると平清盛の重要性と権勢はますます高まった。永万(えいまん)二年(一一六六年)に清盛の娘盛子は夫の関白基実(もとざね)卿の死去にともない広大な遺領を引き継ぐ、これにより「平家」の支配地域は日本随一となった。 仁安(にんあん)二年(一一六七年)清盛は従一位太政大臣となった。後白河帝も手出しできないほどの力を持った平家であるが、後白河帝は平清盛の子の重盛を院の近臣として重用し、全国の軍事警察権を与えることによってパワーバランスを保つ事にした。この頃から清盛は「平家納経」に代表されるように、瀬戸内海からの海上交通権の掌握に力を入れ始める。仁安三年(一一六八年)後白河帝と清盛の義理の妹である滋子との子である高倉天皇が皇位につくと清盛は出家をする。京都を離れ摂津国福原の山荘へ移り住み大輪田泊(おおわだのとまり)の修築に力を入れる。これらは全て宋との交易を目指したものである。宋との交易によって莫大な富を日本にもたらし、その富は九州から瀬戸内海の各領主にも利益をもたらした。この構図を背景に清盛は西日本を完全に掌握する事を目指したのである。宋との交易において清盛が行った最も重要な事は「宋銭」の輸入である。宋銭という他国の通過を輸入し、自国の主要通貨としてしまったのである。清盛は宋との交易を通じて西日本の掌握を目指すと共に、日本の経済革命と経済活動の全ての掌握を目指したのである。】  

ついに平清盛は念願の「公卿」となると共に軍事力を背景として京の都の掌握、そして太政大臣という事実上国家のトップとなりました。そして宋との交易によって莫大な富を蓄え、宋銭の輸入という前代未聞の政策を打ち出します。物々交換に近い経済活動が主流であった外国との交易に経済革命をもたらし、経済活動を活発化させたのです。貨幣を蓄えることによって経済成長が起こり、経済規模を拡大させました。日本史だけでなく世界史的にも稀な経済改革を行ったのです。


by hechimayakushi | 2018-09-11 20:20 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 07月 14日

私説法然伝42

『私説法然伝』(42)王家と平家の時代⑦

 先月号では藤原信頼のクーデター・平治の乱の始まりについて書きました。今月号はその続きについて書きます。

【内大臣三条公教(ないだいじんさんじょうきみのり)卿は信西入道とも親しく、勤勉実直な政務態度で鳥羽帝からも信頼を得ていた人である。三条公教卿は藤原信頼派の専横に危機感を抱き清盛と協力して、藤原信頼派打倒を目指す事になる。清盛は三条公教卿と手を結ぶことで「大義名分」となる「玉体(ぎょくたい)」を押さえる事を目指したのである。三条公教卿は二条天皇親政派である藤原経宗(ふじわらのつねむね)と藤原惟方(ふじわらのこれかた)と接触し、協力を得る事に成功する。二条天皇親政派は反信西入道派ではあったが、反信西入道という目的の為に藤原信頼派と結んでいただけに過ぎず、目的が達成された今は藤原信頼派の専横には困り果てていたからである。こうして反藤原信頼派が形成された。三条公教卿らは「玉体」=二条天皇を内裏から平氏一門の本拠地の六波羅館へ行幸として移す事を計画する。十二月二十五日の夜、藤原惟方は仁和寺に居た後白河帝に計画を告げ脱出させる事に成功した。そして二条天皇も内裏を脱出し六波羅館へと移った。この事はすぐに公卿らに知らされ、続々と清盛の元へ公卿らが集まることになった。そこには藤原摂関家の忠通卿の姿もあった。藤原信頼派の追討の宣旨も下され、平清盛ら平氏一門の軍勢は名実共に「官軍」となった。二条天皇・後白河帝らの六波羅への「行幸」を知った源義朝は藤原信頼卿を「日本第一の不覚人」と罵ったと言う。源義朝らは軍勢を率いて出陣することになるが、この時点ですでに勝敗は決していたのである。義朝の軍勢は平氏の軍勢の前にあえなく崩壊し、藤原信頼卿と藤原成親卿は仁和寺の覚性法親王(かくしょうほっしんのう)の元へ出頭し、藤原信頼卿は死罪となり、平重盛の義理の兄である成親は温情からか解官(げかん)(役職の罷免)だけで済まされた。義朝は逃亡し尾張で殺害され、その息子である頼朝も捕らえられてしまう。本来ならば頼朝も殺害される可能性があったが、助命される。この判断が後の平氏一門の命運を左右する事となる。平氏一門は功績により知行国が五カ国から七カ国に増えた。政治の実権を握った藤原経宗と藤原惟方ら二条天皇親政派であったが、後白河帝への「嫌がらせ」を行い、激怒した後白河帝の命により捕らえられ、失脚する。有力な院の近臣達が一掃され、残ったのは平氏一門、つまり平清盛ただ一人であった。】 


by hechimayakushi | 2018-07-14 17:32 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 06月 14日

私説法然伝41

『私説法然伝』(41)王家と平家の時代⑥

 先月号では平清盛と新たな政治対立について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【後白河院政派と二条天皇親政派の対立構造は、それぞれの院の近臣同士の対立であり、それは新たな軍事勢力の協力が必要となった。二条親政派の筆頭となっていたのが二条天皇の伯父でもあり後白河帝の従兄弟にもあたる藤原経宗(ふじわらのつねむね)卿であった。ただし運と成り行きで公卿となったような経宗卿であり、実力の無さは本人も自覚していたのか、信西入道の政治には入り込む事はしなかった。信西入道の政治体制に転機が訪れたのが、後白河帝自らが引き上げて育てようとした藤原信頼(ふじわらののぶより)卿の台頭である。元は鳥羽帝の近臣の子で、奥州藤原氏とも婚姻関係を持ち、武蔵守として東国での勢力を持ち、特に東国での実効支配を進めていた源義朝(みなもとのよしとも)への影響力は大きかった。藤原信頼卿は若くして公卿へと進み、信西入道と対立することになった。そこで反信西入道派を藤原経宗卿と藤原信頼卿らが形成することになったのである。こうして後白河院政派と二親政派の対立構造は信西入道派と反信西入道との対立という構造になり、それぞれが平氏一門と源氏一門という軍事力を擁する事になり、その対立の緊張度は日に日に高まっていったのである。
平治元年(一一五九年)十二月九日の夜、平清盛らが熊野参詣で京の都を留守にしている隙きを狙い藤原信頼卿は軍勢を使い院の御所であった三条殿を襲撃する。信西入道は危機を察知して逃亡に成功したが、後に土中に箱を埋めた中に隠れているところを発見され殺害される。信西入道の息子等は捕縛され配流されてしまう。後白河帝は二条天皇と共に軟禁状態におかれ、反信西派グループによるクーデターは成功したかのように見えた。信西派であり最大軍事力を持つ平氏一門の棟梁である清盛は、このクーデターの情報を翌日には知ることになった。清盛はここで一つの決断を迫られる事になる。京へ戻るか、逃げるかである。清盛は京へ戻る事にした。京へ戻れば清盛も殺害される可能性はあった。事実として軍勢を率いて東国より京へ参陣した源義朝の子の源義平(みなもとのよしひら)は清盛暗殺を藤原信頼卿に進言している。しかし藤原信頼卿は姻戚関係にある清盛を取り込む事を考えていた。清盛の京への帰還の決断は成功したのである。そして清盛は藤原信頼卿に恭順の意を示し、表向きは藤原信頼卿のクーデター体制に従う事にしたのである。清盛の率いる平氏一門は軍事力では藤原信頼派を圧倒していた。源氏一門の主力は東国にあり、クーデターの為の兵力は隠密行動の為に最小限に抑えられていたからである。清盛は虎視眈々と反撃の機会を伺う事になるのだが、その為には「大義名分」すなわち「玉体」を押さえ必要があった。そこで清盛はある勢力と手をにぎる事にしたのである】


by hechimayakushi | 2018-06-14 14:13 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 06月 14日

私説法然伝40

『私説法然伝』(40)王家と平家の時代⑤

 先月号では平忠盛とその子の清盛について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【平清盛は父・忠盛の築き上げた基盤を受け継ぎ、軍人としても政治家としてもまさに「日本一」に相応しい功績を上げる事になるが、その人生は順風満帆というわけではなかった。実母は諸説あるが、通説となっているのは白河帝に仕えた女房で、清盛が幼い頃に死亡していると思われる。忠盛の正室は院の近臣・藤原宗兼(ふじはらのむねかね)の娘の宗子であり、宗子の子である家盛(いえもり)がいた。清盛が平氏一門の棟梁となれる可能性は低かったらしい。しかしながら、幼い頃の清盛は白河帝の寵愛を受けた祇園女御(ぎおんにょうご)の庇護下で育てられている事や、当時から白河帝の落胤(らくいん)ではないかという説もあったらしく、それらの影響があったのかは不明であるが、異母弟の家盛が若くして亡くなった事もあって清盛が伊勢平氏一門の棟梁となった。
清盛の人生を大きく変える事になったのが、平治の乱である。後白河帝と信西入道による保元の新政に不可欠となったのが新たな安全保障体制である。すなわち京の都の治安維持と荘園の統制ならびに各勢力への牽制と統制の必要性に迫られていたのである。その為には北面の武士の最大勢力であった平氏一門の軍事力に頼らざるおえなかった。信西入道は清盛との結びつきを強め、厚遇する。平氏一門はこの時点で既に五カ国の受領となっており、その勢力は急速に拡大していった。後白河帝の政権は信西入道を中心とした政治体制であり、その政治体制の権力の保持の要となったのが平氏一門の軍事力であったのである。そこに新たな政治勢力が登場する。鳥羽帝の寵愛を受け、鳥羽帝から莫大な荘園を相続して当時の最大勢力でもあった美福門院得子(びふくもんいんなりこ)の勢力である。美福門院は信西入道との「佛と佛との評定」によって美福門院の養子である東宮・守仁親王を擁立し、二条天皇として即位させる。もともと後白河天皇即位は守仁親王の「中継ぎ」としての手段であり、信西入道としても美福門院の要求を断る事はできなかった為である。こうして後白河天皇は退位し後白河上皇となり、後白河院政派と二条親政派とが分かれ対立構造が出来上がってしまったのである。その対立の中で清盛は非常に難しい舵取りを迫られるのであった。】

後白河帝による保元の新政は信西入道と平氏一門による協力体制によって進められてきましたが、美福門院派=二条親政派の登場によって清盛以下平氏一門は難しい立場となっていくのです。


by hechimayakushi | 2018-06-14 14:11 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)