人気ブログランキング |

へちま薬師日誌

toujyuji.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:私説法然伝( 52 )


2019年 06月 06日

私説法然伝52

『私説法然伝』(52)陰謀術数①

 先月号では吉水の地へ法然上人が移られたことについて書きました。今月号はその続きについて書きます。

【法然上人が吉水の地で念佛の日々を送られ始めた頃、世情は再び不安定な状況となっていた。この時代の京の都はたびたび大火に見舞われていた。安元(あんげん)三年(一一七七年)の四月に起こった安元の大火が鴨長明(かものちょうめい)の『方丈記(ほうじょうき)』にも詳細に記されている。朱雀門や内裏(だいり)の中心である太極殿(だいごくでん)や大学寮など公的な施設が焼け、公卿(くぎょう)の館も焼けたとある。鴨長明によれば京の都の三分の一が灰燼(かいじん)に帰したという。延暦寺の僧徒・僧兵は強訴(ごうそ)のために都へ乱入するなど、世情の不安定さは一目瞭然であった。
 世情の不安定さに比例するように政情も不安定となっていく。平家政権の力が絶大になるにつれ、それに対する反発の輪が広がっていったのである。当時の平家政権の力の絶大さの中心となっていたのが、高倉帝の中宮となっていた平清盛の娘建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ)の存在である。高倉帝は後白河帝と清盛の義理の妹である建春門院滋子(けんしゅんもんいんしげこ)との子であり、その高倉帝の擁立が後白河院政の要(かなめ)である。そしてその高倉帝に娘を入内させる事が平家政権の要となっていたのである。 大火の前年の安元二年(一一七六年)後白河帝五十歳の祝いの行事の後に後白河帝は滋子と有馬温泉へと行幸する。それほど仲睦まじい二人であったが、その行幸から都へと戻ると滋子は病に倒れ三十五歳の若さで亡くなってしまう。これにより後白河帝と平清盛とを繋ぎ結んでいた要を失う事になった。利害関係という視点で言えば後白河帝と平家政権は本来的に対立関係である。それを結びつけていたのが、高倉帝の擁立であり建春門院滋子という調整役の存在であった。その一端が崩れると、パワーバランスの崩壊を招くことになった。延暦寺の僧徒・僧兵の乱入も意味なく行われたわけではない。その背景には後白河帝の近臣と延暦寺との対立がある。西光(さいこう)は出家した後の名で、元は藤原師光(ふじわらのもろみつ)と言い信西入道のの乳母の子であり信西入道の配下で名を上げた人物である。信西入道亡き後も後白河帝の近臣として仕えていた。その子である藤原師高(ふじわらのもろたか)・師経(もろつね)兄弟が延暦寺の末寺を焼き討ちにした事が発端となり、延暦寺と院の近臣との対立へと発展したのである。この対立構造に平家一門が巻き込まれる、または介入していく事で政情の不安定さが加速していくのである。】
 
『方丈記』に大火の詳細が記されています。当時の京都は相次ぐ大火や飢饉などで相当不安定な時代であったことでしょう。そんな時代と呼応するかのように政治の世界もまた不安定となっていくのです。


by hechimayakushi | 2019-06-06 01:14 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2019年 04月 13日

私説法然伝51

『私説法然伝』(51)回心回天⑥

 先月号では法然上人が西山の粟生の地にて高橋茂右衛門に教えを伝えられた事、そして遊蓮房円照との出会いと別れについて書きました。今月号はその続きについて書きます。

【遊蓮房円照(ゆうれんぼうえんしょう)と今生(こんじょう)において別れた後の法然上人は京都東山の吉水の地へと庵(いおり)を移されたという。吉水の地は現在の知恩院がある一帯である。現在の知恩院は青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)の南、円山公園の北に位置する。吉水の庵は現在の知恩院御影堂(みえいどう)のあたりとも知恩院の南にある安養寺にあったと伝えられる。当時の様子をうかがい知る手がかりは今現在は何も無いが、八坂神社(祇園神社)や青蓮院門跡という延暦寺末(延暦寺の系統寺院や支配権の及ぶ寺社)の支配地域であったと考えるのは自然であり「不入(ふにゅう)の権」(外部権力の立ち入り拒否権)を持つ地域であった。鴨川の東は当時は市街地ではなく、平家など有力貴族の土地や有力寺社(権門勢家(けんもんせいか))の支配地域であり、鳥辺野など野辺送りの地もあった。当時の京都の中心部からは離れた土地であり、公権力の力がそう簡単に及ばない土地であったことは間違いないであろう。法然上人は長く吉水の地で念佛の日々を送られることになる。
 この時期の法然上人は、積極的に人々に本願念佛を勧めるような活動はされていなかったと伝えられる。一日六万遍の称名念佛を日課とされていたようである。遊蓮房円照と出会ったのが承安(じょうあん)五年(一一七五年)で、遊蓮房円照の往生が治承(じしょう)元年(一一七七年)の事であるので、法然上人が吉水の地に移られたの治承元年あたりのことであろう。法然上人は回心によって人生の一大転機を迎え、人生の新たな出発点を迎えられた。高橋茂右衛門と遊蓮房円照という両名との出会いは新たな出発点を迎えた法然上人に何をもたらしたのか?遊蓮房円照は念佛の「聖(ひじり)」という生き方を指し示す存在であっただろう。対して高橋茂右衛門という存在は、出家者ではない存在が佛教的にどう生きていくべきなのかを法然上人が考えるべき方向性となったのではないだろうか。本願念佛というものは、出家者であろうがなかろうが関係なく佛という存在によって救われることである。それが一人の人間という存在にとってどういう意味があるのかを法然上人に指し示す存在となったのが高橋茂右衛門という人ではないだろうか。】

 法然上人は比叡山を下りられてからの数年間の出来事が高橋茂右衛門と遊蓮房円照という二人の存在との邂逅です。それが法然上人の今後の生き方へ影響を与えたのだと考える事ができると思います。


by hechimayakushi | 2019-04-13 00:12 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2019年 04月 13日

私説法然伝50

『私説法然伝』(50)回心回天⑤

 先月号では法然上人が比叡山延暦寺を下りられる事について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【比叡山を下りられた法然上人が向かわれたのが、西山(にしやま)粟生(あお)の地であった事は間違いないであろう。西山粟生とは西山(せいざん)浄土宗総本山光明寺のある地である。現在では長岡京市と呼ばれる地で、かつて桓武帝により都が置かれた地が長岡京であり、その地の西の峰に粟生の地がある。その地に住む高橋茂右衛門はかつて南都へ向かう法然上人に一夜の宿を提供した人物である。法然上人はその時に交わした約束を忘れていなかった。長い月日が経っていたが、高橋茂右衛門と再会した法然上人は本願念佛の教えを伝えられたのだろう。法然上人が初めて本願念佛の教えを人に伝えた瞬間であった。以来西山粟生の地は日本における本願念佛の根元の地となり、後に正親町天皇より綸旨(りんじ)を賜り建立された「浄土門根元地」の石碑が現在の総本山光明寺に今も残っている。法然上人は高橋茂右衛門と再会した後も西山粟生の地のすぐ近くで数年間を過ごされた。
 法然上人は後に浄土の法門と遊蓮房円照(ゆうれんぼうえんしょう)に出会えた事が人生で最も思い出深い出来事だと述べられている。その遊蓮房円照が住んでいた庵が西山粟生の地からさらに山の中へ入った広谷の地にあったという。遊蓮房円照は念佛の聖であった。もとは藤原是憲(ふじわらのこれのり)と言い、あの信西入道の息子である。平治の乱の後に佐渡ヶ島または安房国に流されたが、その際に出家し遊蓮房円照を名乗った。平治元年(一一五九年)二十一歳の出来事であった。時は流れ承安五年(一一七五年)法然上人と出会うことになったのだが、なぜ法然上人は遊蓮房円照を訪ねたのたのだろうか。遊蓮房円照の妻(藤原顕時の娘)の甥が法然上人の兄弟弟子の信空であった事から、法然上人は遊蓮房円照という念佛の実践者の存在を聞いていたのかもしれない。遊蓮房円照はひたすら称名の念佛に励み「三昧発得」をしたと伝えられる。法然上人は「回心」という確信を得られていたが、それは法然上人一人の内的な体験または仏教的な境地や確信であった。自分の到った確信を誰かに会い確かめる必要があったのだろうか。法然上人は遊蓮房円照と数年間過ごす。遊蓮房円照は法然上人と出会って数年で病を得て浄土へ往生することとなった。その時法然上人が臨終の善知識として遊蓮房円照の往生を見届けた。法然上人が生涯忘れる事が出来ない出会いであった。】


by hechimayakushi | 2019-04-13 00:11 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2019年 02月 14日

私説法然伝49

『私説法然伝』(49)回心回天④

 先月号では法然上人の人生において一番重要な出来事の一つである「回心」について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【法然上人の人生は「回心」によって大きく変わった。それは日本の歴史を変えていくことでもあった。だが、それはまだ先の話である。
 法然上人は約三十年という長い月日を過ごした比叡山を降りることにした。この一点からわかるのが、法然上人は回心によって大きく変わられた事は「事実」だということである。ただし、その時の法然上人の思いや考えがどのようなものであったのか、定かでない。本願念佛の教えを広く世に広めるためであったのか?それとも何か他の目的があったのであろうか?少なくとも何かの理由と意図があったには違いないのである。ただ念佛の日々を送るだけなら比叡山を降りる事はないはずである。山を降りるということは、比叡山延暦寺の僧侶として保証されている人生を捨てることになる。そうまでしてなぜ山を降りたのか?
 まず思想的に師僧である叡空の下には居づらくなったのかもしれない。黒谷という比叡山の中でも隠遁の地であっても、法然上人はもう居場所が無くなってしまったのではないか?阿弥陀佛の本願によって救われる「他力」という思想の法然上人が、方法論の違いがあれども、いずれも「自力」の思想の世界であり、相反する思想の法然上人が居ることができなくなった、そう考えるのは不自然ではないだろう。ただし、それだけで山を降りるのも不自然でもある。
 法然上人の回心は到達点でもあったが、出発点ともなった、と考えると、山を降りなければならないというよりも、山を降りたくなったのかもしれない。「他力」というのは何もしなくても救われる事でもあるが、それを自覚した時にはじめて開眼され始まる境地と状況がある。救われている真実への報恩感謝の念佛というものである。法然上人はその報恩感謝の念佛の第一歩として、山を降りる事にされたのかもしれない。籠山すること約三十年、回心と同じく承安五年法然上人は新たな一歩を踏み出される事になった。】

 法然上人がついに比叡山延暦寺を下りられる事になりました。諸説ありますが、決して後ろ向きな理由だけはなく、前向きな理由があったことでしょう。そして大事な事は山を下りられた法然上人がどこへ向かわれたのか、ということです。


by hechimayakushi | 2019-02-14 01:59 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2019年 01月 15日

私説法然伝48

『私説法然伝』(48)回心回天③

先月号では法然上人の出会われた『観経疏』の著者の善導大師について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【法然上人は『観経疏(かんぎょうしょ)』の「散善義(さんぜんぎ)」という巻にある「一心専念弥陀名号(いっしんせんねんみだみょうごう) 行住坐臥(ぎょうじゅうざが)不問時節久近(ふもんじせつくごん) 念念不捨者(ねんねんふしゃしゃ) 是名正定之業(ぜみょうしょうじょうしごう) 順彼佛願故(じゅんぴぶつがんこ)」(一心にもっぱら阿弥陀佛の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問わず、念々に捨てざる者、是れ正定の業と名づく。彼の佛の願に順ずるが故に)の一節を読まれた時に「回心」(心を改める事)されたと伝記にある。法然上人は三度にわたって『観経疏』を読まれ、三度目にして回心されたのである。つまり、三度のうちの二度での読み方と、三度目の読み方に変化があったのである。『観経疏』は『観無量寿経』の注釈書で、四つの巻で成り立っている。第一巻となる「玄義分(げんぎぶん)」において『観無量寿経』という経典の意義・エッセンスが述べられている。「散善義」は第三巻目にあたる。その中の一節・一文に法然上人の人生、または日本の歴史を塗り替えるきっかけとなる内容があった。この一節は「順彼佛願故」以外だけを読むと「常に念佛する人は必ず往生する」という自分の力で往生するのだという意味合いになる。そこに「順彼佛願故」の一文が加わると、「彼の佛の願に順ずる」=「願いが成就して阿弥陀佛となった佛の力によって、念佛する人は必ず往生する」という意味にになる。
 自分自身の力やはたらきで往生する、という「分別」の中で法然上人は『観経疏』を読まれていた。三度目に読まれた時にこの一文に込められた大きな意味に気がつかれた。自分の力やはたらきではない、阿弥陀佛という佛の力・はたらきによって往生する、つまり「他力」という真理に気がつかれたのである。阿弥陀佛とは法蔵菩薩が全ての衆生を救うという願い=本願(第十八願)を成就して佛となった佛。そこに法然上人自身が救われたいという願いも入っている、そしてその願いは成就されている、そう確信されたのだろう。その確信を回心と言う。また言い換えれば「分別」を越えたのである。法然上人四十三歳の年、承安(じょうあん)五年(一一七五年)春の事だったという。】

 法然上人が「回心」された承安五年(一一七五年)は法然上人が浄土宗を開かれた「立教開宗の年」ともされています。法然上人は回心されてからどのような人生を歩まれていかれたのでしょうか?


by hechimayakushi | 2019-01-15 00:12 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 12月 13日

私説法然伝47

『私説法然伝』(47)回心回天②

 先月号では法然上人の目指すものについて書きました。今月号はその続きについて書きます。

【法然上人が思い悩まれていたのは当然のことであった。法然上人にとって、または法然上人以前の多くの人の認識では、佛教とは佛道であり、佛道とは修道であり、修道とは「できる」か「できない」かである。法然上人は「できない」と認識されていた。そして「できる」ためにはどうしたらよいのか?という思いで様々な方法や考え方を模索されていたわけである。その中で出会ったのが「念佛」であったが、これもまた「できる」か「できない」かという問題が発生してしまう。法然上人以前にインドに始まり中国、そして日本で多くの「念佛」に関する考えが生まれ、発展してきた。法然上人はそれらの考え方を学ばれ、実践されてきた中で出会ったいずれも「できる」か「できない」かという問題への直接的な解決策は明示されていなかった。そして法然上人は善導大師の書かれた『観経疏』に出会われた。
 この善導大師とはどのような僧侶であったのか?善導大師は隋の時代六一三年の生まれで、幼くして出家し、般舟三昧行(はんじゅざんまいぎょう)という精神統一による観想の念仏行をされていたと伝えれる。後に道綽禅師(どうしゃくぜんじ)に出会われ『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』の講説を聞き、道綽禅師の下で本願念佛の御教えに目覚められたという。善導大師は「できる」「できない」という念佛から、本願念佛という他力(自分の力に依らない)の念佛に目覚められた方であった。その善導大師が書かれた著書の一つが『観経疏』である。法然上人は『観経疏』を読み、悩まれたのだろう。その悩みを作ったのは恐らく「分別(ふんべつ)」というところであったのではないだろうか?私達は常に「分別」をしている。「分別」とは私達が無意識でも意識的にも行うことである。天気が良くて青空が広がっている、それを観た私達は「良い天気で空が青い」と「分別」する。「分別」してから今の天気は良くて空が青いと私達は認識する。
しかし、その日の空は私達が「分別」する前に既に天気が良くて青かった、分別しなくても天気が良ければ空も青いのである。その「事実」は意識して思考しないと気が付かないのが人間というものである。
本願念佛というものの本質もまた同じ事だと言えるのである。】


by hechimayakushi | 2018-12-13 00:07 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 11月 13日

私説法然伝46

『私説法然伝』(46)回心回天①

 先月号では日宋貿易の始まりと影響について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【新しい時代へと突入したのだ、と。その時代に生きていた人々がはっきり認識して生きていたかどうかは定かではない。今現代でもそうである。ただし、どの時代でも変革の時代には人々の思考というものはその影響を受ける事が多いのは事実であると言える。平安時代とは後の時代の人間が命名した時代の名前である。その当時の人々がそう認識していたわけではない。平安時代から鎌倉時代へと移り変わったというのも、後の時代の人間がそう認識しているだけである。当時の人々がそう感じたかどうかは定かではない。しかし確実に「世の流れ」が変化した事は当時の人々でも感じ取らざる負えなかったのではないだろうか?かつて栄華を誇った藤原摂関家の権勢も衰え、「治天の君」として絶大な権力を振るった「王家」も今や平家一門の力を頼らなければ政治体制を維持することが困難となっている。世の流れは留まることを知らずして、いつ何時変わるかもしれないものだと、人々は実感していたに違いない。それは法然上人が身を置いている比叡山延暦寺でもそうである。伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)開山以来、時代の中で、数多の僧侶が流れを変化させてきた。その中に恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)の確立した浄土佛教がある。浄土佛教という流れに出会った法然上人はこれから一つの大きな流れを生み出されることになる。承安二年(一一七二年)平清盛の築いた時代が全盛を迎えつつある頃、法然上人は四十歳となっていた。「念佛」という道を模索され続けていた、と推察される。『往生要集(おうじょうようしゅう)』によって示された善導大師(ぜんどうたいし)の『観経疏(かんぎょうしょ)』と向き合う日々であったのであろう。念佛に出会われてから早数年、ひたすら思索と実践を繰り返されていたと思われる。「念佛」こそが法然上人が求められていた道であるには違いない。しかし「確信」であったり、「納得」であったり、法然上人の思索の中で何か合点がいかない点があったのは間違いない。それは「誰もが必ず救われる道」ではなかったからだろうか。ただ念佛、というのは法然上人ならば可能であっても、誰しもが可能な道ではない。南無阿弥陀佛と称えるだけの称名念佛でも、誰もができるわけではない。そこに法然上人がたどり着くべき場所の「ヒント」があった。】


by hechimayakushi | 2018-11-13 11:35 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 10月 27日

私説法然伝45

『私説法然伝』(45)王家と平家の時代⑩

 先月号では平清盛が政権の全盛について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【後白河帝は嘉応(かおう)二年(一一七〇年)清盛のいる福原へ行幸し、宋人と会っている。その時代の日宋間の貿易の拠点は福岡であった。清盛は福原・大輪田(おおわだ)の泊(とまり)を整備し、日宋貿易の新たな拠点とすることを目指していた。後白河帝も進歩的な思考であったらしく、清盛の路線には理解を示していたという。承安(じょうあん)二年(一一七二年)に宋の皇帝考宗(こうそう)の兄の趙伯圭(ちょうはくけい)から、後白河帝と清盛に供物が届いた。そこには「日本国王に賜ふ物色、太政大臣に送る物色」とあった。これが無礼であると物議を呼ぶことになる。金に押され宋は衰えたとは言え「中華」である事には変わりなかった。そのため皇帝より「日本国王」への贈物という事であったのだ。翌年には返礼の品が贈られ、公式ではないが公的な性格を持った日宋貿易が開始されたのである。これにより清盛の狙いである宋銭の大量輸入が本格化していく。当時の朝廷=国家は「絹」を基軸通貨として扱っていた。つまり絹を基軸に物価が決まり、その物価を元に財政が行われていた。しかし宋銭の流通により、絹の価値が低下する。これにより朝廷の財政力が低下することを恐れたのが後白河帝であった。しかし世界的な経済交流の大きな流れの中で、清盛によって始められた「グローバル化」の流れを止めることは不可能であった。これが「後白河帝=王家」と「清盛=平家」の時代の全盛期であると同時に対立の始まりであったのである。一見すると安定した政権が始まったようであったが、実態としては次の争いの始まりであり、それは日本が新しい時代へと突入したことでもあった。】

 院政期というのはある日突然終わり、武士の時代が来たというわけではないと以前に書きましたが、ここまで数十年の流れを追って見ていくと、それがどういう意味かがはっきりとしてくると思います。また新しい時代というものの重要な鍵となるものが意外なものであったりするのです。ただどの時代でも必ず「経済」というものが重要な鍵となることには変わりないと言えます。特に院政期では二つの経済、荘園等を中心とした「土地」の経済と「宋銭」という新しい経済が重要な鍵となっていったのです。


by hechimayakushi | 2018-10-27 00:09 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 09月 11日

私説法然伝44

『私説法然伝』(44)王家と平家の時代⑨

 先月号では平清盛が政権の頂点となり経済改革を通じて「日本」の掌握を狙ったことについて書きました。今月号はその続きについて書きます。

【承安(じょうあん)二年(一一七二年)清盛は娘徳子を、後白河帝と滋子(しげこ)との子である高倉天皇の中宮とする事に成功する。これが事実上の後白河院政下における平清盛の全盛とも言える。この後白河帝と平清盛の両輪による政権全盛をさらに支えた両輪が、清盛の子の平重盛卿と義理の弟であった平時忠卿であった。重盛は保元の乱・平治の乱を通して父清盛を支え武功を立てた。二条帝親政下では二条帝からの絶大な信頼を受け若くして参議となる。後白河帝との関係も良好で、同じく参議として国政に関わり、清盛の後継者として軍事警察権を与えられるなど、まさに順風満帆な出世であったが、後白河帝からしたら何をするかわからない清盛よりも、数々の武功を上げた優秀な軍人でありながらも実直かつ温和な性格の重盛の方が御し易いという判断も含まれていたものと思われる。しかし歴史書『愚管抄』を書き残した慈鎮和尚慈円(じちんかしょうじえん)ですら重盛を「イミジク心ウルワシク」と書き残しているほどの人格者であり、その人柄が政権運営に大きく影響した事は間違いない。平時忠は清盛の継室の時子の異母弟であり、失脚しながらも再び政権中枢に返り咲くほどの「しぶとい」実務官僚にして政治家であった。実務官僚の中でも重要な役職である蔵人(くろうど)・検非違使(けびいし)・弁官(べんかん)の三職を兼任するなど(三事兼帯)、その実務能力は実際に優秀であった。特に検非違使という警察官僚としては特に優秀で、平清盛政権を支え続ける原動力の一つであった。
 この両名をはじめとして優秀な軍人・官僚・政治家が政権を支えるのであるが、院政を開始した後白河帝と、位人臣(くらいじんしん)を極めた平相国(へいしょうこく)清盛入道の経済改革等の独自路線、さらに摂関家や寺社勢力を巻き込んだ対立が始まるのが、承安二年という年であった。】

後白河帝と清盛という二大巨頭による政権運営は順調そうに見えましたが、日本史上初の武家出身者が太政大臣となったこと、前代未聞の試みとも言える一大経済改革と国際化路線、「平家」による大多数の知行国の独占や莫大な荘園の保有はパワーバランスの偏りを招きました。それが対立を生み出し、争いとなったのです。その争いが時代をさらに変革へと動かしていきました。


by hechimayakushi | 2018-09-11 20:22 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 09月 11日

私説法然伝43

『私説法然伝』(43)王家と平家の時代⑧

 先月号では藤原信頼のクーデター・平治の乱の顛末について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【その時、平清盛の気持ちというものはどうであったろうか?もはや「藤原摂関家」の権勢は失墜し、「治天の君」も力のある近臣を失い、平家一門に頼るしか政権運営が行えない事は明白であった。永暦(えいれき)元年(一一六〇年)にはついに参議に昇進し「武家」としてはじめて公卿となる。つまり「政権」への参加が始まったのである。平氏一門は重要な役職を握り、知行国も増加していった。二条帝の崩御により後白河院政が確立されると平清盛の重要性と権勢はますます高まった。永万(えいまん)二年(一一六六年)に清盛の娘盛子は夫の関白基実(もとざね)卿の死去にともない広大な遺領を引き継ぐ、これにより「平家」の支配地域は日本随一となった。 仁安(にんあん)二年(一一六七年)清盛は従一位太政大臣となった。後白河帝も手出しできないほどの力を持った平家であるが、後白河帝は平清盛の子の重盛を院の近臣として重用し、全国の軍事警察権を与えることによってパワーバランスを保つ事にした。この頃から清盛は「平家納経」に代表されるように、瀬戸内海からの海上交通権の掌握に力を入れ始める。仁安三年(一一六八年)後白河帝と清盛の義理の妹である滋子との子である高倉天皇が皇位につくと清盛は出家をする。京都を離れ摂津国福原の山荘へ移り住み大輪田泊(おおわだのとまり)の修築に力を入れる。これらは全て宋との交易を目指したものである。宋との交易によって莫大な富を日本にもたらし、その富は九州から瀬戸内海の各領主にも利益をもたらした。この構図を背景に清盛は西日本を完全に掌握する事を目指したのである。宋との交易において清盛が行った最も重要な事は「宋銭」の輸入である。宋銭という他国の通過を輸入し、自国の主要通貨としてしまったのである。清盛は宋との交易を通じて西日本の掌握を目指すと共に、日本の経済革命と経済活動の全ての掌握を目指したのである。】  

ついに平清盛は念願の「公卿」となると共に軍事力を背景として京の都の掌握、そして太政大臣という事実上国家のトップとなりました。そして宋との交易によって莫大な富を蓄え、宋銭の輸入という前代未聞の政策を打ち出します。物々交換に近い経済活動が主流であった外国との交易に経済革命をもたらし、経済活動を活発化させたのです。貨幣を蓄えることによって経済成長が起こり、経済規模を拡大させました。日本史だけでなく世界史的にも稀な経済改革を行ったのです。


by hechimayakushi | 2018-09-11 20:20 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)