へちま薬師日誌

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2018年 06月 14日

私説法然伝41

『私説法然伝』(41)王家と平家の時代⑥

 先月号では平清盛と新たな政治対立について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【後白河院政派と二条天皇親政派の対立構造は、それぞれの院の近臣同士の対立であり、それは新たな軍事勢力の協力が必要となった。二条親政派の筆頭となっていたのが二条天皇の伯父でもあり後白河帝の従兄弟にもあたる藤原経宗(ふじわらのつねむね)卿であった。ただし運と成り行きで公卿となったような経宗卿であり、実力の無さは本人も自覚していたのか、信西入道の政治には入り込む事はしなかった。信西入道の政治体制に転機が訪れたのが、後白河帝自らが引き上げて育てようとした藤原信頼(ふじわらののぶより)卿の台頭である。元は鳥羽帝の近臣の子で、奥州藤原氏とも婚姻関係を持ち、武蔵守として東国での勢力を持ち、特に東国での実効支配を進めていた源義朝(みなもとのよしとも)への影響力は大きかった。藤原信頼卿は若くして公卿へと進み、信西入道と対立することになった。そこで反信西入道派を藤原経宗卿と藤原信頼卿らが形成することになったのである。こうして後白河院政派と二親政派の対立構造は信西入道派と反信西入道との対立という構造になり、それぞれが平氏一門と源氏一門という軍事力を擁する事になり、その対立の緊張度は日に日に高まっていったのである。
平治元年(一一五九年)十二月九日の夜、平清盛らが熊野参詣で京の都を留守にしている隙きを狙い藤原信頼卿は軍勢を使い院の御所であった三条殿を襲撃する。信西入道は危機を察知して逃亡に成功したが、後に土中に箱を埋めた中に隠れているところを発見され殺害される。信西入道の息子等は捕縛され配流されてしまう。後白河帝は二条天皇と共に軟禁状態におかれ、反信西派グループによるクーデターは成功したかのように見えた。信西派であり最大軍事力を持つ平氏一門の棟梁である清盛は、このクーデターの情報を翌日には知ることになった。清盛はここで一つの決断を迫られる事になる。京へ戻るか、逃げるかである。清盛は京へ戻る事にした。京へ戻れば清盛も殺害される可能性はあった。事実として軍勢を率いて東国より京へ参陣した源義朝の子の源義平(みなもとのよしひら)は清盛暗殺を藤原信頼卿に進言している。しかし藤原信頼卿は姻戚関係にある清盛を取り込む事を考えていた。清盛の京への帰還の決断は成功したのである。そして清盛は藤原信頼卿に恭順の意を示し、表向きは藤原信頼卿のクーデター体制に従う事にしたのである。清盛の率いる平氏一門は軍事力では藤原信頼派を圧倒していた。源氏一門の主力は東国にあり、クーデターの為の兵力は隠密行動の為に最小限に抑えられていたからである。清盛は虎視眈々と反撃の機会を伺う事になるのだが、その為には「大義名分」すなわち「玉体」を押さえ必要があった。そこで清盛はある勢力と手をにぎる事にしたのである】

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by hechimayakushi | 2018-06-14 14:13 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 06月 14日

私説法然伝40

『私説法然伝』(40)王家と平家の時代⑤

 先月号では平忠盛とその子の清盛について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【平清盛は父・忠盛の築き上げた基盤を受け継ぎ、軍人としても政治家としてもまさに「日本一」に相応しい功績を上げる事になるが、その人生は順風満帆というわけではなかった。実母は諸説あるが、通説となっているのは白河帝に仕えた女房で、清盛が幼い頃に死亡していると思われる。忠盛の正室は院の近臣・藤原宗兼(ふじはらのむねかね)の娘の宗子であり、宗子の子である家盛(いえもり)がいた。清盛が平氏一門の棟梁となれる可能性は低かったらしい。しかしながら、幼い頃の清盛は白河帝の寵愛を受けた祇園女御(ぎおんにょうご)の庇護下で育てられている事や、当時から白河帝の落胤(らくいん)ではないかという説もあったらしく、それらの影響があったのかは不明であるが、異母弟の家盛が若くして亡くなった事もあって清盛が伊勢平氏一門の棟梁となった。
清盛の人生を大きく変える事になったのが、平治の乱である。後白河帝と信西入道による保元の新政に不可欠となったのが新たな安全保障体制である。すなわち京の都の治安維持と荘園の統制ならびに各勢力への牽制と統制の必要性に迫られていたのである。その為には北面の武士の最大勢力であった平氏一門の軍事力に頼らざるおえなかった。信西入道は清盛との結びつきを強め、厚遇する。平氏一門はこの時点で既に五カ国の受領となっており、その勢力は急速に拡大していった。後白河帝の政権は信西入道を中心とした政治体制であり、その政治体制の権力の保持の要となったのが平氏一門の軍事力であったのである。そこに新たな政治勢力が登場する。鳥羽帝の寵愛を受け、鳥羽帝から莫大な荘園を相続して当時の最大勢力でもあった美福門院得子(びふくもんいんなりこ)の勢力である。美福門院は信西入道との「佛と佛との評定」によって美福門院の養子である東宮・守仁親王を擁立し、二条天皇として即位させる。もともと後白河天皇即位は守仁親王の「中継ぎ」としての手段であり、信西入道としても美福門院の要求を断る事はできなかった為である。こうして後白河天皇は退位し後白河上皇となり、後白河院政派と二条親政派とが分かれ対立構造が出来上がってしまったのである。その対立の中で清盛は非常に難しい舵取りを迫られるのであった。】

後白河帝による保元の新政は信西入道と平氏一門による協力体制によって進められてきましたが、美福門院派=二条親政派の登場によって清盛以下平氏一門は難しい立場となっていくのです。

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by hechimayakushi | 2018-06-14 14:11 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)