へちま薬師日誌

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2018年 07月 14日

私説法然伝42

『私説法然伝』(42)王家と平家の時代⑦

 先月号では藤原信頼のクーデター・平治の乱の始まりについて書きました。今月号はその続きについて書きます。

【内大臣三条公教(ないだいじんさんじょうきみのり)卿は信西入道とも親しく、勤勉実直な政務態度で鳥羽帝からも信頼を得ていた人である。三条公教卿は藤原信頼派の専横に危機感を抱き清盛と協力して、藤原信頼派打倒を目指す事になる。清盛は三条公教卿と手を結ぶことで「大義名分」となる「玉体(ぎょくたい)」を押さえる事を目指したのである。三条公教卿は二条天皇親政派である藤原経宗(ふじわらのつねむね)と藤原惟方(ふじわらのこれかた)と接触し、協力を得る事に成功する。二条天皇親政派は反信西入道派ではあったが、反信西入道という目的の為に藤原信頼派と結んでいただけに過ぎず、目的が達成された今は藤原信頼派の専横には困り果てていたからである。こうして反藤原信頼派が形成された。三条公教卿らは「玉体」=二条天皇を内裏から平氏一門の本拠地の六波羅館へ行幸として移す事を計画する。十二月二十五日の夜、藤原惟方は仁和寺に居た後白河帝に計画を告げ脱出させる事に成功した。そして二条天皇も内裏を脱出し六波羅館へと移った。この事はすぐに公卿らに知らされ、続々と清盛の元へ公卿らが集まることになった。そこには藤原摂関家の忠通卿の姿もあった。藤原信頼派の追討の宣旨も下され、平清盛ら平氏一門の軍勢は名実共に「官軍」となった。二条天皇・後白河帝らの六波羅への「行幸」を知った源義朝は藤原信頼卿を「日本第一の不覚人」と罵ったと言う。源義朝らは軍勢を率いて出陣することになるが、この時点ですでに勝敗は決していたのである。義朝の軍勢は平氏の軍勢の前にあえなく崩壊し、藤原信頼卿と藤原成親卿は仁和寺の覚性法親王(かくしょうほっしんのう)の元へ出頭し、藤原信頼卿は死罪となり、平重盛の義理の兄である成親は温情からか解官(げかん)(役職の罷免)だけで済まされた。義朝は逃亡し尾張で殺害され、その息子である頼朝も捕らえられてしまう。本来ならば頼朝も殺害される可能性があったが、助命される。この判断が後の平氏一門の命運を左右する事となる。平氏一門は功績により知行国が五カ国から七カ国に増えた。政治の実権を握った藤原経宗と藤原惟方ら二条天皇親政派であったが、後白河帝への「嫌がらせ」を行い、激怒した後白河帝の命により捕らえられ、失脚する。有力な院の近臣達が一掃され、残ったのは平氏一門、つまり平清盛ただ一人であった。】 

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by hechimayakushi | 2018-07-14 17:32 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 07月 12日

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by hechimayakushi | 2018-07-12 13:25 | 寺務日誌 | Trackback | Comments(0)