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へちま薬師日誌

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2024年 09月 18日

私説法然伝112

『私説法然伝』(百十二)法然の法難⑩

 先月号では法然上人の建永の法難について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【建永二年の法難と流罪、その当時の法然上人はどのようなご様子であったのだろうか?
 建永元年(一二〇六年)七月、法然上人は住居を吉水(現知恩院)から清水寺の南西にあった小松殿(小松殿は平重盛卿の住居・殿は上級公家の住居を指し尊称でもある)へ移られていた。これは九条兼実卿の配慮によるものとされる。小松殿は九条兼実卿の住居である月輪殿に隣接しており、平家没落後は九条兼実卿が所有していた。弾圧が迫る法然上人に対する最大限の配慮の証と言える。
 法然上人並びに教団への念佛停止の宣下の時点での法然上人の心中はどのようなものであったのか?また、処断を聞き知っての心中はどのようなものであったのか?おそらく本音を語られることはあり得なかったであろう。何か漏れ伝わった時点でよりその処断が重くなる危険性がある以上は本音を語れないのであると考えるのが普通である。したがって伝記類に伝わる法然上人の語られた内容もその危険性を踏まえてのものと考える必要がある。
 伝記によればまず兄弟弟子である信空が弟子などを代表して法然上人と問答をしている。信空は勅命に従い「念佛停止」(ねんぶつちょうじ)を受け入れる旨を上奏し、内々で他力本願念佛の教えを守れば良いのでは?と法然上人に問いかけた。興福寺等や朝廷そして後鳥羽帝に対してその主張を受け入れた後に妥協策を探るという意味があるものだろう。苛烈な処分ということは、逆にそれを素直に受け入れるという姿勢によって交渉の糸口を探る事が出来るのでは?ということである。
 信空の考えは今の時代でも一種の合理性があるものである。裁判で言えば情状酌量の余地がある、という裁定を引き出すために従順な姿勢を見せるべきであるというものである。問題はそれが実際に有効であるかどうかであろう。
 法然上人の答えはおそらく弟子たちが思いもしなかったものであった。まず自分自身が流罪となったことは何一つ問題とならないと言い切ったのである。七十五歳となった自分自身はこの世との別れが近い、いずれ皆とは極楽浄土で再会するだけである(倶会一処・くえいっしょ・阿弥陀経に説かれる極楽浄土にて再び会う意味の言葉)と説かれた。この法然上人の考え方はシンプルに佛の教えに従うというものであり、その宣言である。つまり法然上人にとって佛法そのものが全てにおいて最重要であり、生き方もそうであるということである。
 法然上人にとっての他力本願念佛という教えをもとに生きるという事がどういうことかを示されたのである。】

 建永の法難とその苛烈な処分、これは現代でも当時でもあきらかに「弾圧」と言えるものでした。その弾圧に対してどうするか?信空らの考え方と法然上人の考え方は違いました。
 処分を受け入れ、そこから妥協策を探るという信空の主張と法然上人の処分そのものに従うという考え方の違いです。
 信空の処分を受けれいるというのはあくまで処分を軽くしてもらうための情状酌量を引き出す「戦術」と言えます。
 対して法然上人の処分を受けれいるというのは、裁判で言えば争うことを放棄するというものです。
 この法然上人の考えが何を意味するのか?ここにいくつかの考察すべき点があるのです。一つは法然上人にとって最重要であったのは三部経に何が書かれているのか?つまり「佛法」そのものであったことです。流罪となってそれぞれがバラバラとなったとしても、いずれ極楽浄土で再会するのだから問題ないだろう、これは「佛法」に説かれる内容そのものです。
 法然上人は「佛法」に従う、ということを宣言されたのです。これは極めてシンプルですが、現実世界に生きる中で「佛法」つまり他力本願念佛の生き方とは何か?ということを法然上人が身を持って示されたものであります。
         


# by hechimayakushi | 2024-09-18 21:56 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2024年 09月 18日

私説法然伝111

『私説法然伝』(百十一)法然の法難⑨

 先月号では法然上人の建永の法難について書きました。今月号はその続きです。

【建永二年(一二〇七年)二月十八日念佛停止の宣下が下り、同月二十八日に法然上人の教団への処断が決定された。
 死罪は以下四名である。善綽房西意、性願房、住蓮房、安楽房遵西。善綽房西意と性願房に関しては死罪となった罪状等不明であるが、死罪となったという。
 流罪は以下の八名である。法然房源空、善信房親鸞、禅光房澄西、好覚房、法本房行空、浄聞房、成覚房幸西、善慧房證空とある(これらは親鸞著『歎異鈔』記述より)
 流罪にあたり法然上人は還俗させられ名前を藤井元彦(もとひこ)とされたと伝記にはあるが別の伝記『四巻伝』には「源」ともあり、所説ある。他にも親鸞聖人は藤井善信(よしざね)とさせられた。
この還俗させられて流罪となるのは「僧尼令」(そうにれい)という法律に基づくものとされる。
 法然上人の流罪の土地は四国の土佐国(現高知県)となった。親鸞聖人は越後国(現新潟県)などそれぞれ異なった土地への流罪となったが、成覚房幸西と善慧房證空上人(西山上人)は流罪だが、元天台座主慈円の預かりとなる(幸西は違うという説もある)。證空上人が慈円の預かりとなったことの理由は所説あり、はっきりとしたものは無いが、後々の慈円と法然上人の関わりや證空上人との関わりから「逆算」すると、何かしらの決め事であるとか今後の方針のようなものがあったのかもしれない。
 建永二年当時の證空上人は法然上人に入門し随身する弟子の中では最も法然上人に近く秘書官の役割を担っていたと考えられている。秘書官としての役割はもとは真観房感西の役目であったが、正治二年(一二〇〇年)に亡くなっており、その後にその役目も全て引き継いだのであろう。
 弟子の最長老は法蓮房信空で、彼は白川の禅房(祖父顕時が黒谷の叡空に寄進し法然上人へ譲られ、さらに信空へ譲られた地・現金戒光明寺)に住んでおり、また彼自身は祖父が権中納言藤原顕時、父は藤原行隆という鳥羽帝時代から平清盛全盛期に活躍した政治家・高級官僚の家柄であり、祖父の命で比叡山黒谷の叡空の元へ入門、法然上人の同門であった。法然上人の信頼する同門の兄弟弟子であり世間的にも信用があったのが信空という人であろう。
 證空上人は法然上人に直接入門する、例えば親鸞聖人のように慈円のもとで得度して比叡山へ登り、その後に入門するというルートではなく、はじめから法然上人へ入門するという珍しいルートである。法然上人の元で全てを学び、同時に法然上人の右手となり活動していたのである。
 證空上人が法然上人の右腕、秘書官としての活動の記録は消息類(手紙)などに残されており、元久年間の消息類では、法然上人の他の弟子へ、法然上人に成り代わって法然上人の様子などを伝えており、代筆を行っていたことは明白である。
 證空上人が流罪になるということは、それだけ法然上人に近い側近であったと認知されていたことであろう。だがこの時期の證空上人は法然上人と共に暮らしていたので、安楽房や住蓮房のような活動をしていたわけではない。あくまで側近として秘書官としていたのだが、それ故に法然上人の全てを知る存在でもあったのは間違いない。法然上人が流罪となり京の都を離れた後に、在京の弟子や信徒を束ねられるほどの存在は最長老であり自らの住まいを持つ信空のような存在か、また全てを把握していた證空上人か、となる。
 慈円という人は、本人が望む望まないと関わらず、兄の九条兼実卿が最も信頼し大事にした法然上人と何かしらの関わりが生まれてしまうのである。同時に慈円ほどの知性を持つ人は、その立場を越えて物事の善し悪しも判断するのである。
 證空上人は慈円の預かりとなった。それにははっきりとした理由は残されていないが、後々の展開から逆算すると、法然上人の立場であれば他力本願念佛を「正確」に残すため、慈円の立場からすれば兄のためと同時に法然上人の全てを知る者を「守る」と同時に「手に入れる」ことにもなるのである。】   


# by hechimayakushi | 2024-09-18 21:54 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2024年 09月 18日

私説法然伝110

『私説法然伝』(百十)法然の法難⑧

 先月号では法然上人の建永の法難について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【建永二年(一二〇七年)二月九日、六条河原にて数百回の念佛を称えた後に安楽坊遵西は処刑された。住蓮房は近江の国の馬淵にて処刑となった。
「治天の君」後鳥羽帝の処断は苛烈を極めたのである。前例にないほどの苛烈さであった。これは前例主義の朝廷がその処断の判断を下していないことを明確に示している。鹿ヶ谷の事件以前の後鳥羽帝の態度は双方の言い分を聞き理解し朝廷や前例=法に沿った判断を下す、という統治者としては合理性のあるものであった。 しかしこの苛烈な処断は、その合理性や正当性をかなぐり捨てなければならないほどの逆鱗に触れた結果であると今現在でも考えられている。実はここに一つの結果論としての政治的な判断があったとも言えるのである。 つまり興福寺が何と訴えようが、それは「治天の君」の判断を左右するものではない、ただ「治天の君」の判断を覆すほどの行為に対しては絶対許す事はない、という断固としたメッセージが込められているのが、苛烈さを極めた処断の実相であろう。
後鳥羽帝は激怒しながらも極めて冷徹であったと言える。これらの処断はあくまで興福寺を睨んだものであり、興福寺を睨むということはその背景にある藤原摂関家一門を睨んだものでもあり、南都の支配者でもあった興福寺を睨むということは北嶺の支配者である比叡山延暦寺にも睨みを効かせることでもあった。最終的な政治判断を下せるのは寺社権門勢力でも朝廷でも藤原摂関家でも鎌倉武家政権でもない「治天の君」である自分であるという峻烈なメッセージが込められていると考えるのが自然であろう。
 ここまで苛烈な政治判断が下されては、誰も手出しできない事態であることは一目瞭然であった。かつて朝廷の全てを差配した九条兼実卿は、何とかして自らにとって最も信用する存在である法然上人を守りたかったであろうが、如何ともし難いほどの苛烈さがあった。いままでの南都北嶺の訴えに対しての朝廷と後鳥羽帝の対応は明確に法然上人の思想と行動を理解した上での法治主義的な対応であった。法然上人の言わんとする他力本願念佛という思想、そして法然上人の必要以上に自己統制=自律持戒の姿勢を正当に理解し評価していたと考えるのが自然である。しかしこの期に及んでの苛烈さは、何を意味するのかを考える必要がある。それは単純に後鳥羽帝一個人の怒りではなく、この「怒っても良い状況」を的確に利用せんとするからこその苛烈さであると捉えるのは論理的にも自然な事であると考えられる。
 その苛烈さを示す言葉に「念佛停止」(ねんぶつちょうじ・建永二年二月に宣下が下る)というものがある。要は法然上人の教団の活動停止命令である。京の都において法然上人の弟子と信徒の活動は非合法化されたのである。このことからも後鳥羽帝の怒りとは、つまり自らの握る統治権の行使であることは明確である。それは興福寺や延暦寺の要求や朝廷の法治主義を飛び越える存在が後鳥羽帝であるという意思表示そのものであるのだ。先に書いたように、安楽坊遵西と住蓮房は僧侶として異例の処断である死罪になされた。これもその意思表示の一つであると捉えるべきことはないだろうか?
 この処断はアンタッチャブルであった神佛の領域も「治天の君」が何もかも差配し処断するという意思表示そのものではないだろうか?少なくとも朝廷も九条兼実卿も「政治」という観点でそう捉えたに違いないのである。だからこそ表立って抗うこともできなかった。そこで法然上人は何を思われたのであろうか?】

 現代の標準的な考え方や歴史観においては法然上人への「弾圧」は国家主義的な宗教弾圧と捉えがちですが、流れを追っていくと後鳥羽帝という「治天の君」が「王」としてどう考え行動したのかという姿が見えてくる領域があると思います。単純化して考えがちな領域には、実は高度な政治判断の連続の結果があるのだと考えた方が自然なのです。 


# by hechimayakushi | 2024-09-18 21:53 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2024年 03月 17日

私説法然伝109

『私説法然伝』(百九)法然の法難⑦

 先月号では法然上人の建永の法難について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【後鳥羽帝に仕える女官が出家してしまう、しかも興福寺によって訴えられている最中の法然上人の弟子による事件である。伝記によればこの事を悪く後鳥羽帝に伝える者がいたようであり、また慈円の『愚管抄』によれば女官が院の御所へ弟子たちを招き入れ説法を聞き夜が遅くなったので泊まらせたとある。つまりはスキャンダルとして伝聞してしまったのであろう。
 後鳥羽帝は当然の事ながら怒り狂った。自分が留守の間に、自分に仕える院の女官が勝手気ままに出家したのだから当然の事とも言える。現代で言えば女性高級官僚が大臣の外遊中に許可も得ずに転職してどこかへ行ってしまったようなものでもある。 女官=女房はその立場や地位は様々であり、時代によっても位置づけは変わるが、いわゆる院政期から鎌倉時代においては女院(皇后など天皇に次ぐ地位の女性)の数が増えたことにより、自然とそれに仕える女官=女房の数も増えた。
 安楽房と住蓮房の元で出家した女官は、一説には松虫・鈴虫という二人の女官であり、また一説には伊賀局亀菊、また坊門局ともされるが仔細不明な点が多い。後鳥羽帝の愛妾とも言われるが、その点も不明である。愛妾であれば後鳥羽帝の熊野行幸に従う可能性もあり、留守を預かりながら鹿ヶ谷まで安楽房と住蓮房の別時念仏法要に出かけるという点から考えるとそこまで重要な地位の女官ではなかったのかもしれないが、後鳥羽帝の怒りから考えると、後鳥羽帝にとって怒る理由がある程の人物であった可能性は高い。
 朝廷という法の執行機関を飛び越えて、後鳥羽帝の怒りは執行されることとなった。これには女官の出家というスキャンダル化された出来事、つまり自分の顔に泥を塗られたという怒りだけではなく、そもそも朝廷の上に君臨する「治天の君」として興福寺の訴えを聞きながらも、法然上人という当時における革新的な宗教思想家を理解し、その争いを自分の意向の中で納めることで、興福寺の上にも法然上人の上にも立つ、全ての存在の上に君臨する存在であることを示していた事を台無しにされた怒りがあったものと考えられる。
 これは極めて政治的に高度な思考を後鳥羽帝はされていた事の裏返しとも考えられる事である。後鳥羽帝はまさに「王」と言える存在であった。その能力と行動は「王」としてのものであり、それは白河帝から続く「治天の君」のなんたるかを示すものでもあった。君臨すれども統治せず、ではない、君臨し統治する存在が「治天の君」であったのだ。だからこそ後鳥羽帝は激怒し、処断する必要に迫られたと言える。
 安楽坊遵西並びに住蓮房は、死罪となった。これは僧侶に対する処罰としては異例の事である。だが、その異例をもってして「治天の君」のなんたるかを示したのである。そして今までは(おそらく高度な政治判断も含めて)弟子の不行状・不始末の責任までは問われなかった法然上人並びに法然上人の教団そのものへも処罰は下ることになってしまったのである】

 ここまで一気に「法然上人の法難」の一連の流れを書いてきました。これらはひとまとめに「建永の法難」とも「承元の法難」とも言われますし、比叡山延暦寺での法然上人への弾劾と興福寺奏状への朝廷の裁定までを「元久の法難」とし、それ以後の法難を「建永の法難」と分ける考え方もあります。ここでは「元久の法難」と「建永の法難」を区別しながらも、連続していることから一つの流れとして書きました。この「法難」という災難によって法然上人とその周辺は大きく変わることになります。
 興福寺奏状の様な他宗派からの攻撃と、法然上人の弟子の行いの結果と、朝廷や後鳥羽上皇の政治判断などの様々な要素が絡み合い、最終的には後鳥羽上皇という当時の権力構造の頂点に立つ存在がどういうものであるのか?という点をよくよく理解すると、その災難の解像度が上がるものであると思います。最高権力者が最高権力者たらんとするところに、法然上人の悲劇と転換点があるのです。


# by hechimayakushi | 2024-03-17 19:14 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2024年 03月 17日

私説法然伝108

『私説法然伝』(百八)法然の法難⑥

 先月号では法然上人の元久の法難から建永の法難について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【建永元年(一二〇六年・元久三年四月に建永に改元された)の夏には興福寺の訴えを三条中納言藤原長兼卿(ふじわらのながかね)が中心メンバーとなって対応策を考え、後鳥羽帝の意向もあり、法然上人の責任は問わず、あくまで弟子の不始末というところで決着をさせた模様である。藤原長兼卿の日記『三長記』にその経緯が記されているが、最終的にどのような決着になったのかは記されていない。しかし法然上人の弟子の法本房行空(ほうほんぼうぎょうくう)という「一念義」という考えの弟子は法然上人によって破門されていることから、行空だけは法然上人の教団にとっても看過できないものがあったとわかる。「一念義」とは「一念往生義」とも言い、おおざっぱに言えば念佛を一念すれば必ず救われるのだから何をやっても良い、という考えである。しかし、これは根本的に間違っていて、我々の一念は往生の要因ではなく阿弥陀佛のはたらきによる往生が確約されているのである。したがって行空はそもそも法然上人の説かれた他力本願念佛を間違えたかたちで理解していた。なので間違った結果となったのである。
 行空の考え方は、阿弥陀佛の他力本願念佛を信じるという点では間違ってはいない。しかし「一念」を二つに区別して浄土に往生することに優劣をつける点や、浄土に往生することが確定しているのだから一念以上の称名念佛は不要であり悪い行いを重ねても問題が無いとする点などは他力本願念佛を読み間違えたものである。法然上人の日々の六万遍とも七万遍とも言われる称名念佛は外向けの「方便」であり、真意は一念義であると主張していたが、法然上人の他力本願念佛とは、阿弥陀佛の本願を知り信じる安心感から、報恩感謝の生き方としての称名念佛を勧めるものであり、完全に行空は間違えた捉え方をしていたのである。
 法然上人が行空を破門したことにより、興福寺の訴えを朝廷が裁定し法然上人もそれに従い行動していたことはうかがい知れる。興福寺が完全に納得したかどうかはともかくとして、朝廷としては「落としどころ」を作って事を荒立てずに解決したかったことは間違いがないであろう。
 行空以外にも興福寺が問題視した弟子がいた。名前を安楽坊遵西(あんらくぼうじゅんさい)と住蓮房と言い、安楽房は以前に『選択本願念佛集』を作成する際のメンバーの一人であった。もともと朝廷における外記(げき)という文章作成のスペシャリストの実務官僚の家柄の出であり、その能力があったからか執筆者として関わっていたが、慢心があったので法然上人からメンバーを外されたという逸話がある。安楽房は僧侶としての才覚が優れていたようであり、文筆家であるだけでなく声明(お経に節や音程をつけて唱えるもの)も優れていたようである。同じく声明に優れたのが住蓮房である。彼ら二人はその優れた声明で人々を惹きつけ人気があったようである。安楽房と住蓮房が行っていた声明は、現代の西山浄土宗でも伝わりつとめられている善導大師の「六時礼讃」(西山浄土宗勤行式の三尊礼もその一部分)に節をつけて唱えるものであったという。それは当時の人々にとっては画期的な音楽的な美しさのものとして心をとらえたものであった。
 そして建永元年十二月九日、おそらく行空の破門で朝廷と法然上人は興福寺の訴えの落としどころとして決着させることができたのであろう、後鳥羽帝は熊野行幸で不在となり、安楽房と住蓮房の両名は京の都のはずれの鹿ヶ谷の草庵で別時念佛(べつじねんぶつ・期間を定めてひたすら称名念佛を行う行事)において声明の法要をつとめていた。これは現代風に考えれば一種のコンサートやイベントのようなものでもあったであろう、多くの聴衆がかけつけて行われた。その聴衆の中に、後鳥羽帝に仕える女官の姿があった。
 後鳥羽帝が熊野行幸で不在の間に、安楽房と住蓮房の声明を目当てに鹿ヶ谷に訪れたのである。そして女官はその後に出家をしてしまうことになった。】  


# by hechimayakushi | 2024-03-17 19:12 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)