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へちま薬師日誌

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2023年 10月 18日

私説法然伝104

『私説法然伝』(百四)法然の法難②

 先月号では法然上人の選択集著述以後の歴史的な事柄について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【建久九年(一一九八年)久我通親卿はまさに天下を握るが如き状態となる。先例や東国武家政権鎌倉の幕府の意向を無視して立太子していない自らの養女の子で後鳥羽帝の子の土御門天皇の践祚(せんそ・天皇位を受け継ぐこと)を強行する。
 これによって事実上、通親卿が権力のトップであることの証明でもあった。「源博陸」(みなもとのはくりく・中国の古事より権力を欲しいままにすること)とも言われるほどの権勢を誇ることになる。
 朝廷権力を握った通親卿だが、歴史的に言われるほど強硬路線というわけではなかった。政治路線は東国武家政権との融和路線であり、朝廷においても基本的に融和路線である。当時の源頼朝嫡子は頼家であったが、頼家の左近衛中将昇進をさせている。また頼朝の長女の大姫入内が大姫の悲劇的な死によって不可能となっても頼朝と連携し次女の三幡姫の入内に向けて動いている。朝廷権力を握ったと言えど、事実上最大の軍事力を誇るのは東国武家政権であるため、頼朝との連携は不可欠であったからと言えるが、通親卿の政治的スタンスはあくまで現実主義であるからであろう。
 しかし諸行無常の言葉通り、状況は常に変化するもので、同年に頼朝は落馬し波乱の生涯を終えるのであった。正治元年(一一九九年)京都にもその知らせが届き、政界は動揺する。通親卿は頼朝という後ろ盾を失ったことと、政変の予感から難しい対応を迫られることとなった。藤原定家の日記の『明月記』に詳細が残されている。正治元年正月十八日に頼朝の訃報が京の都に届き、すぐに政変(クーデター)の噂が広がる。自らの命が危ないと察知した通親卿は院の御所へ立て籠もる。
 京の都には戒厳令がしかれた様になり、その政変の噂はどこから出て誰が何をしているのかが謎のまま二月となる。二月十一日、兵を集めて謀議を行っていたと源隆保(頼朝従兄弟)に疑いがかけられ、公職を解かれる。後藤基清、中原政経、小野義成ら三名が騒動に関わっているとして左衛門尉(さえもんのじょう・武官)ら三名が捕縛される。騒動の関係者が捕縛されていき、騒動の内容が明らかとなった。
 捕縛された左衛門尉の三名はいずれも一条能保(いちじょうよしやす)家のゆかりのものであった。一条能保は頼朝の兄妹の坊門姫の夫であり、頼朝の義兄弟であった。三歳で父を亡くし、官職にもつけず苦労したが、頼朝が東国武士政権を確立すると異例の栄進をとげる。頼朝との関係が良好であったのと、頼朝にとっては数少ない信頼できる身内であったからであろう。後白河院にも仕え、九条家や久我通親家と縁戚となり、京都守護職も務めるなど着実に実務をこなし鎌倉政権の京都における最重要人物の一人となっていた。しかし建久八年(一一九七年)に死去し、息子の高能(たかよし)も同年に亡くなっている。この事から一条家の行く末を案じた後藤基清ら一条家ゆかりの遺臣らが謀議を図って政変を起こそうとしたのが騒動の事実であった。
 通親卿は鎌倉の事務方トップであった大江広元らと協力し、事態の沈静化を図る。
鎌倉も頼朝死去により混乱があり、鎌倉の政権を安定軌道にのせるためには京都のトップとなっていた通親と協力関係を維持するしかなく、また通親と共に不満分子を排除する絶好の機会でもあった。
 通親卿は現実主義者として、鎌倉政権と協力関係を維持しながらも、同時に自らの権力保持につとめた。後に「三左衛門事件」と呼ばれる事件の後は東国・京の都共に安定化する。正治元年から建仁二年(一二〇二年)までの数年間は通親卿の政権が続きまさに我が世の春であったが、世の無常であるように建仁二年十月に通親卿も急死するのである。】   


# by hechimayakushi | 2023-10-18 14:57 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2023年 09月 16日

私説法然伝103

『私説法然伝』(百三)法然の法難①

 先月号では法然上人の選択本願念仏集について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【『選択集』を著述されるまでの法然上人の状況は、言わば一つの拡大期のようなものであったと言える。養和一年(一一八一年)法然上人四十九歳の年から、建久九年(一一九八年)法然上人六十九歳までの期間である。この期間において様々な人々が法然上人の弟子や支持者、今日で言う「檀信徒」となられたのである。
 法然上人の人生を分けて考えるのなら、お生まれになってから比叡山延暦寺での時代を前半生、承安五年(一一七五年)四十三歳にして他力本願念佛のみ教えを体得され比叡山を下り西山粟生の地にて「浄土宗」の立教開宗をされた年からが後半生となるが、後半生をさらに二つに分けると、四十三歳から建久九年(一一九八年)『選択集』を著されるまでが後半生の前半、または中期と言ってもよいであろう。
 時代はすでに源頼朝によって開かれた東国武家政権の時代であり、依然として平安の都には「王権」つまり後鳥羽帝(ごとばてい)が君臨している時代でもあった。
 『選択集』が生み出された建久九年同年に十九歳であった後鳥羽天皇は土御門天皇に譲位される。これにより後鳥羽上皇による院政の開始つまり「治天の君」の誕生となる。後鳥羽帝は後白河帝の孫に当たり、壇ノ浦の悲劇である安徳帝の異母弟にあたる。「よろづの道々にあきらけくおはしませ」と『増鏡』に記されるように、文武両道にして行動派の帝であったことは間違いがない。
 建久三年(一一九二年)後白河帝の崩御以後は関白九条兼実卿による「摂関政治」が復活し、源頼朝との良好な関係からも政治的に安定していたが、頼朝の娘の大姫の入内問題、これは九条兼実卿の娘の任子がすでに後鳥羽帝に入内しているところへの「横槍」のようなものであった。
 源頼朝はあからさまに九条兼実卿との関係を打ち切り、代わって台頭したのが久我通親であった。現在の西山浄土宗、つまり西山派の流祖となる善慧房證空上人の義理の父でもあり、有職故実に通じ摂関家の政治家として優秀であったが、朝廷の政治家としては悪いことが出来ない性格で不向きであった兼実卿とは真逆とも言えるタイプであった。合理性を優先させるタイプの政治家であったのだ。
 頼朝からしたら付き合いやすいのは兼実卿よりも通親であったと思われる。自らの政治的野心のための大姫入内であり、その達成のために兼実卿との関係を打ち切り、代わりに政治的パートナーとして通親を優遇するのである。
 いわゆる「建久七年の政変」と呼ばれる兼実卿の失脚は頼朝の政治的野心と、朝廷内での反兼実卿勢力の台頭によって起きるのである。反兼実卿勢力とは、九条兼実卿の治世の四年間によって生み出されたものでもある。
 九条兼実卿の治世は幼い後鳥羽帝のもとで、まだ生まれたばかりの鎌倉の東国武家政権との共調と提携の中で行われたものである。実の弟の慈円を天台座主に据えて比叡山延暦寺を統制し、歴史上当時としては最大級の戦乱であった源平争乱で荒廃した平安京と南都復興を成し遂げ、何より東大寺復興を成し遂げたのは最大の功績であろうが、朝廷内での「院近臣」(いんのきんしん)を排除する動きで反感を買い、摂関家の氏の長者としてのプライドからの行動が気がつけば敵だらけという状況を招いてしまったのである。
 それでも自らの娘の任子に皇子誕生があれば全て違う結果になったかもしれないが、それが叶わず、兼実卿の失脚へとつながるのである。】 


# by hechimayakushi | 2023-09-16 11:07 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2023年 08月 19日

私説法然伝102

『私説法然伝』(百二)④

 先月号では法然上人の選択本願念仏集について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【法然上人は『選択集』の書写を限られた門弟のみに許したが、基本的には一度読んだら壁に埋めよとまで書き記したほどである。そこには深い配慮があったことが伺われる。「秘密主義」というものではなく、他力本願念佛という佛の真実は絶対の正しさであるが故に、「凡夫」という正しいものの見方が出来ない存在にとっては危険なものにもなりかねない事がわかっていたからであろう。
 必ず救われるのだから何をしても良い、念佛さえ称えたら何をしても良い、逆にただひたすら念佛をたくさん称えることが正しい事である、など極端なとらえかたに支配される可能性があるからである。それを異安心(いあんじん)と言う。法然上人が恐れられたのは、そこであろう。
 「佛」の真実とは、究極的には我々には理解できない、それを「他力不思議」と言う。法然上人の最も近くで仕えて「勘文の役」という『選択集』を作り上げるための最重要の役目を与えられた善慧房證空上人や後に関東で他力本願念佛を広められた親鸞聖人は「他力」とは「不思議」、つまり我々には思い考えが及ばぬ力であり、それこそが「本願」であり「念佛」であると人々に伝えられたのである。だが「異安心」であればその理解が出来なくなる。「自分」というものだけで理解してしまう、理解できると思いこんでしまうのである。
 「自力」とは自分の力で出来るという意味であるが、それは自分の見方や考え方ややり方でしか理解できない事でもある。
 「他力」とは自分以外の見方や考え方ややり方で理解する事でもある。法然上人は自らが学ばれた全てを手放されて「他力」である「本願」と「念佛」に出会われた。それは法然上人は自分の力や能力で出来ないことを自覚されたからこそ、阿弥陀佛という自分ではない「はたらき」を理解できたのである。
 自分の眼ではなく、佛の眼で見た自分とは何かというところに「他力」の理解は生まれるのである。
 必ず救われるから何をしてもよい、というのは自分の眼でしか見ていないことである。他の異安心もそうであり、真実は佛の力で救われるにしろ、そこに「他力」は何も無いのである。
 「他力」とはどう生きるかと言っても良い。それは法然上人が比叡山から下りられての人生を振り返ればそうであったようにありがたい素晴らしいものをいただいた時に人が自然とそうなるような気持ちで生きることなのである。
 法然上人は自らがいただいたものは何であったのかを人々に伝えられ、その感謝の中で生きることとされた。それが法然上人のお念佛そのものである。
 だからこそ法然上人は厳しすぎるほどに自らを律せられ、報恩感謝という気持ちを体現されたのであろう。】

 『選択集』とは法然上人が出会われた「他力本願念佛」そのものを人々にどう伝えられるかという事であります。しかしそれは法然上人にとっては苦悩の道とも言えるもです。なぜなら「他力本願念佛」とは阿弥陀佛という佛そのものの真実でありますから、佛そのものとは何か、ということを言葉に表す事であるからです。
 「凡夫」であるということは、佛ではないということですので、佛の言葉ではなく凡夫の言葉でしか佛を表せないのです。 
 『選択集』はその難しさを体現された書物でもあるのです。しかし「凡夫」とは何か?という事を理解することで、その逆である「佛」とは何か?を理解する道を進むことが出来るのです。
 法然上人と善慧房證空上人などが『選択集』を作り上げられる時期は法然上人の下に大勢の「佛」を求められる方が集まる時期でもあります。そこで法然上人が恐れられたであろうことは、「佛」が間違った形で人々に理解されることであったのは確実でしょう。そして法然上人が恐れられたように間違った理解をする人々があらわれてしまうのです。
  


# by hechimayakushi | 2023-08-19 09:56 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2023年 07月 18日

私説法然伝101

『私説法然伝』(百一)選択本願念佛集③

 先月号では法然上人の選択本願念仏集について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【法然上人は『選択集』の第三章においてはっきりと書かれている。豊かな者や賢い者や学問のできる者や完璧な僧侶よりも、貧しい者、愚かな者、学問のない者、戒をやぶる者の方が多く、それら全ての人を救うのが他力本願念佛であると。

 それは単なる阿弥陀佛の事実であり、本質的に法然上人が何かを「破壊」したかったわけでも「革命」を起こしたかったわけでもない。あくまで佛とは何か、ということが法然上人にとっての一大事であり、その事実が他力本願念佛という真実であったのだ。

 『摧邪輪』で法然上人を批判された明恵上人は若い頃に佛になるために自らの右耳を切り落とし、釈尊を目指すために天竺(現インド)への渡航を計画したほどの熱狂的な佛教僧であり、その生涯において持戒と修行の道を追い求めたまさに佛教に生きた僧侶である。明恵上人がなぜ法然上人を批判されたかと言えば、明恵上人は「佛」を追い求められたからである。だが法然上人もまた同時に「佛」を追い求められたからこそ他力本願念佛という真実にたどり着かれたのである。

 他力本願念佛とは、佛とは何か?ということでもある。全ての衆生を救われた阿弥陀佛という佛が他力本願念佛なのである。だが明恵上人の追い求めた佛とは、自らが佛になるための道そのものと言っても良い。戒を守り、自らを律し、修行法を追い求める道である。その道を我々の代わりに阿弥陀佛はやってくださった、などと言われたら明恵上人からしたら「おかしい」と思われるのも無理はない話である。明恵上人という方はあくまで現世における自らの「修道」の方であり、同時にそれを行えるだけに飛びぬけた学識もあった。だからこそ法然上人の真意、それは「他力」の真意が許しがたい事に思えたのだろう。「佛」というものの真実が「絶対」であるならば、その対となる「衆生」つまり自分そのものは救われるだけの「凡夫」でしかない構図が許せなかったのかもしれない。】

 現代社会まで続く「他力本願念佛」の教え、これはつまり我々西山浄土宗や浄土宗や浄土真宗や時宗などお念佛の教えを守る各宗派に一貫した考えがあります。「汝是凡夫」と釈尊が仰られたように自分自身というものは佛道修行や功徳を積むための善行を行うことができない、今現在は「佛」にはなれない存在であるという事実。同時に、だからこそ阿弥陀佛という「凡夫」救済の修行を必要として佛となった「佛」という事実。この二つの事実を認めるのが我々にとっての「真実」なのです。

 自分のちからでは佛になれない、その事実の一点こそが我々にとっての終着点であり出発点となるわけですが、それが認められないという考え方も当然あります。法然上人は他の考え方を否定されたわけではなく、あくまで今の自分は「凡夫」であるという事実が終着点であり出発点でもありました。だからこそ自分が救われることは誰もが救われる道であると確信されたのです。

 この「誰もが救われる」という道は、論理的な構造として「誰もが凡夫である」という事実の発見になるのです。誰もが凡夫であるということは、自分が凡夫ではない、凡夫であることから逃れたいという人にとっては不都合な真実でもあったわけです。      
以下次号に続く





# by hechimayakushi | 2023-07-18 23:30 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2023年 07月 18日

私説法然伝100

『私説法然伝』(百)選択本願念佛集②

 先月号では法然上人が選択本願念仏集をどのように書かれたのか、というところまで書きました。今月号はその続きについて書きます。

【『選択集』の目的はあくまで九条兼実卿に献本するためであった。そして献本し解説する役目を担ったのが善慧房證空上人その人であったという。そのために證空上人が勘文の役を担い、さらに献本のうち下巻の清書も任されたのであろう。
 しかし不思議なのは、證空上人は九条兼実卿の最大の政敵であった久我通親卿の猶子であった。そこに法然上人の何かしらの深謀遠慮があったのかもしれないが、今となってはその深意は計り知れないのである。
 確実にわかっている事は、明確に法然上人は善慧房證空上人という人に法然上人の体得されたものを全てを伝えられたということである。『選択集』における證空上人の関わりが全てを物語っている。
 『選択集』を理解するには、中身を理解する方法と、逆にその批判というものから理解する方法がある。法然上人在世の頃の批判者としては三井寺の大弐僧正公胤によるものがあった。
 『観無量寿経』には「読誦大乗」の句があり、つまりは『法華経』などの大乗経典を読誦することで往生は可能であろうという論理によって法然上人の「念佛」を批判されたのだ。だが、後に公胤は法然上人の満中陰(四十九日)の導師を勤められた方である。公胤は自らの批判は間違いであったと己の著書を焼き捨てられた。公胤は法然上人の主張は「念佛を称えたら往生できる」と『選択集』を読んだからで、『選択集』であきらかにされたのは他力本願念佛つまり我々のちからによる往生ではないという点であり、その事を公胤は理解したために、自らの批判は間違いであったと理解できたのであろう。この事からも『選択集』とは法然上人の伝えられたかった事とは、他力本願念佛そのものであったことがわかるのである。
 法然上人より後の時代にはなるが、『選択集』の批判で最も有名なのが京都栂尾高山寺の明恵上人である。明恵上人は法然上人を尊敬されていたが、『選択集』を読み、同時に法然上人の門弟の行いなどから法然上人批判に転じたという。そして『摧邪輪』という自らの著作において痛烈に法然上人と『選択集』を批判するであった。
要点としては法然上人と『選択集』は「菩提心」つまり「さとり」を求め佛道を目指す志を否定しているものだと批判したのである。そして浄土門以外の諸宗派を法然上人は否定したと捉えて批判した。
 他力本願念佛というものはあくまで阿弥陀佛という佛の「菩提心」つまり全ての衆生を救いとることで佛となる「佛の菩提心」によって衆生は救われるのだという真実を法然上人は伝えられたのであり、それは人々の菩提心を否定するものでも、諸宗派を否定するものでもなかったのである。むしろ菩提心そのものが他力本願念佛なのである。】

以下次号に続く


# by hechimayakushi | 2023-07-18 23:24 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)