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へちま薬師日誌

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2018年 10月 27日

私説法然伝45

『私説法然伝』(45)王家と平家の時代⑩

 先月号では平清盛が政権の全盛について書きました。今月号はその続きについて書きます。

【後白河帝は嘉応(かおう)二年(一一七〇年)清盛のいる福原へ行幸し、宋人と会っている。その時代の日宋間の貿易の拠点は福岡であった。清盛は福原・大輪田(おおわだ)の泊(とまり)を整備し、日宋貿易の新たな拠点とすることを目指していた。後白河帝も進歩的な思考であったらしく、清盛の路線には理解を示していたという。承安(じょうあん)二年(一一七二年)に宋の皇帝考宗(こうそう)の兄の趙伯圭(ちょうはくけい)から、後白河帝と清盛に供物が届いた。そこには「日本国王に賜ふ物色、太政大臣に送る物色」とあった。これが無礼であると物議を呼ぶことになる。金に押され宋は衰えたとは言え「中華」である事には変わりなかった。そのため皇帝より「日本国王」への贈物という事であったのだ。翌年には返礼の品が贈られ、公式ではないが公的な性格を持った日宋貿易が開始されたのである。これにより清盛の狙いである宋銭の大量輸入が本格化していく。当時の朝廷=国家は「絹」を基軸通貨として扱っていた。つまり絹を基軸に物価が決まり、その物価を元に財政が行われていた。しかし宋銭の流通により、絹の価値が低下する。これにより朝廷の財政力が低下することを恐れたのが後白河帝であった。しかし世界的な経済交流の大きな流れの中で、清盛によって始められた「グローバル化」の流れを止めることは不可能であった。これが「後白河帝=王家」と「清盛=平家」の時代の全盛期であると同時に対立の始まりであったのである。一見すると安定した政権が始まったようであったが、実態としては次の争いの始まりであり、それは日本が新しい時代へと突入したことでもあった。】

 院政期というのはある日突然終わり、武士の時代が来たというわけではないと以前に書きましたが、ここまで数十年の流れを追って見ていくと、それがどういう意味かがはっきりとしてくると思います。また新しい時代というものの重要な鍵となるものが意外なものであったりするのです。ただどの時代でも必ず「経済」というものが重要な鍵となることには変わりないと言えます。特に院政期では二つの経済、荘園等を中心とした「土地」の経済と「宋銭」という新しい経済が重要な鍵となっていったのです。


# by hechimayakushi | 2018-10-27 00:09 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 10月 26日

大般若転読修行

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平成30年11月8日 
午前11時より
大般若転読修行
お申込みはお電話・直接窓口までどうぞ。

















# by hechimayakushi | 2018-10-26 22:31 | 寺務日誌 | Trackback | Comments(0)
2018年 09月 24日

平和公園・永代合祀墓

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平和公園・東充寺の墓地内にどなたでもご利用いただける永代合祀墓が完成しました。
一霊10万円でご利用いただけます。
宗旨など問わず、どなたでもご利用いただけます。
詳しくはお寺までご相談ください。



# by hechimayakushi | 2018-09-24 22:00 | 寺務日誌 | Trackback | Comments(0)
2018年 09月 24日

お知らせ

10月12日はご祈祷お休みとなります。



# by hechimayakushi | 2018-09-24 20:52 | 寺務日誌 | Trackback | Comments(0)
2018年 09月 11日

私説法然伝44

『私説法然伝』(44)王家と平家の時代⑨

 先月号では平清盛が政権の頂点となり経済改革を通じて「日本」の掌握を狙ったことについて書きました。今月号はその続きについて書きます。

【承安(じょうあん)二年(一一七二年)清盛は娘徳子を、後白河帝と滋子(しげこ)との子である高倉天皇の中宮とする事に成功する。これが事実上の後白河院政下における平清盛の全盛とも言える。この後白河帝と平清盛の両輪による政権全盛をさらに支えた両輪が、清盛の子の平重盛卿と義理の弟であった平時忠卿であった。重盛は保元の乱・平治の乱を通して父清盛を支え武功を立てた。二条帝親政下では二条帝からの絶大な信頼を受け若くして参議となる。後白河帝との関係も良好で、同じく参議として国政に関わり、清盛の後継者として軍事警察権を与えられるなど、まさに順風満帆な出世であったが、後白河帝からしたら何をするかわからない清盛よりも、数々の武功を上げた優秀な軍人でありながらも実直かつ温和な性格の重盛の方が御し易いという判断も含まれていたものと思われる。しかし歴史書『愚管抄』を書き残した慈鎮和尚慈円(じちんかしょうじえん)ですら重盛を「イミジク心ウルワシク」と書き残しているほどの人格者であり、その人柄が政権運営に大きく影響した事は間違いない。平時忠は清盛の継室の時子の異母弟であり、失脚しながらも再び政権中枢に返り咲くほどの「しぶとい」実務官僚にして政治家であった。実務官僚の中でも重要な役職である蔵人(くろうど)・検非違使(けびいし)・弁官(べんかん)の三職を兼任するなど(三事兼帯)、その実務能力は実際に優秀であった。特に検非違使という警察官僚としては特に優秀で、平清盛政権を支え続ける原動力の一つであった。
 この両名をはじめとして優秀な軍人・官僚・政治家が政権を支えるのであるが、院政を開始した後白河帝と、位人臣(くらいじんしん)を極めた平相国(へいしょうこく)清盛入道の経済改革等の独自路線、さらに摂関家や寺社勢力を巻き込んだ対立が始まるのが、承安二年という年であった。】

後白河帝と清盛という二大巨頭による政権運営は順調そうに見えましたが、日本史上初の武家出身者が太政大臣となったこと、前代未聞の試みとも言える一大経済改革と国際化路線、「平家」による大多数の知行国の独占や莫大な荘園の保有はパワーバランスの偏りを招きました。それが対立を生み出し、争いとなったのです。その争いが時代をさらに変革へと動かしていきました。


# by hechimayakushi | 2018-09-11 20:22 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)