2024年 01月 01日
『私説法然伝』(百七)法然の法難⑤ 先月号では法然上人の元久の法難から建永の法難について書きました。今月号はその続きについて書きます。 【法然上人の法難、つまり公的な迫害に関しての「なぜ起こったのか?」という点を理解するには、歴史的経緯と同時に構造的な理解も必要となってくる。つまり法然上人の仰られていた事や考え方がどうして迫害につながったのか?ということである。 法然上人の思想、これはつまり阿弥陀佛とは何か?という事を法然上人がどう理解していたのか?という点に尽きる。これは、阿弥陀佛とは全ての存在を救うことを願い、その願いを成就した結果である、という理解であったことは間違いがない。なので法然上人のお念佛とは救われた事への報恩感謝から起こる念佛である。これが法然上人にとっての安心(あんじん・救われたという理解)と起行(きぎょう・救われたことへの報恩感謝)である。法然上人にとってそのありがたさが全てであった。なので法然上人は繰り返し、ひたすらそのありがたさを人々に伝えられ、お念佛を勧められたのである。 そのお念佛を勧められたことで、人々に教えは伝わるのだが、身近で毎日法然上人の言葉を誰もが聞けるわけではない。距離があればあるほど正確に全てを伝え、理解することは難しくなる。なので法然上人の教えを間違ったかたちで理解してしまう人々も多くいた。 そもそも法然上人が説かれた教え、とは法然上人の教えではなく、釈尊の説かれた阿弥陀佛の真実であり真理そのものである。これは浄土三部経というお経に明らかにされていたことであり、今までの解釈ではその真実が正しく明らかにされていなかったことを善導大師が独り明らかにされていた。それを法然上人が発見されたわけである。 だが、私たちはその事実の関連性を間違えやすいのである。阿弥陀佛とは真理そのものであり、真理とは救いそのものである。それはそのままでは誰も理解ができないものであり、さとりを開かれた=真理を理解した釈尊でしか理解できない世界なのである。だから釈尊は理解できるかたちで浄土三部経という言葉で真理を残された。しかし言葉で真理は顕(あらわ)しきれないものであり、それを読み解くことも難しい。 善導大師はそれができたのである。だから法然上人は善導大師を「師」とされたのだ。佛の教えとは師資相承の教え、つまり師僧から弟子へと伝えることが基本となる。釈尊は佛となられたので、その力や能力を使って正確に教えを伝えることはできたが、釈尊以降はそれが難しくなっていく。どうしても言葉の力だけでは完全に確実に伝えることは難しい。 法然上人もまたその難しいことをひたすら繰り返し、繰り返されたのである。だが、やはり間違ったことが起こってしまう。そこで他の宗門からの非難が起こるのである。責任論で言えば法然上人にも非があるとされてしまう。朝廷は法然上人の教えそのものを否定せず、あくまで弟子や信者が間違った理解をしたことで間違った結果になったと理解した。これは自然な理解である。興福寺は佛教として、より厳しく法然上人の責任を迫った。これもまたある意味では佛教の厳しさの一面でもあるかもしれない。 法然上人の法難、迫害の構造の一つはその佛教の持つ構造そのものの一面でもあった。しかし法然上人という枠組みを飛び越えたところにも法難の原因が発生してしまうのである。これが建永の法難のもう一つの構造となるのである。 建永元年(一二〇六年)十二月九日後鳥羽帝の熊野行幸の最中に事件が起こるのである。この事件が引き金となり、法然上人にとって最大の苦難とも言える法難が起こるのであった。】
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by hechimayakushi
| 2024-01-01 09:43
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2024年 01月 01日
『私説法然伝』(百六)法然の法難④ 先月号では法然上人の選択集著述以後の歴史的な事柄、元久の法難について書きました。今月号はその続きについて書きます。 【南都最大の勢力であった興福寺は、元久二年(一二〇五年)十月、全ての宗派・宗門による訴えとして念仏停止(ねんぶつちょうじ)を求めた。これは院、つまり後鳥羽帝並びに朝廷への訴えとなるものである。比叡山延暦寺の僧侶の怒りは、あくまで法然上人が天台僧であり、天台宗内部の問題で収まるものであったが、後に「興福寺奏状(こうふくじそうじょう)」と呼ばれる念仏停止の訴えは国家への訴えであり、規模が違うものとなった。 諸説あるが、奏上文の多くは笠置寺の解脱房貞慶(げだつぼうじょうけい)の作文によるものとされる。貞慶はかの信西入道の孫にあたる。つまり法然上人にとって特別な存在であった遊蓮房円照の甥にあたるのである。貞慶は法相宗の学僧であった。祖父の信西入道のごとく、頭脳明晰そのものであったことは奏上文を見れば理解できるのである。 奏上は九種の失、つまり過失を念仏停止の理由として挙げている。 新宗を立つる失、新像を図する失、釈尊を軽んずる失、万善を妨ぐる失、霊神に背く失、浄土に暗き失、念仏を誤る失、釈衆を損ずる失、国土を乱る失の九種である。 まず何よりもそもそも朝廷に何の届け出も願い出もなく新宗を建てることは許されないことであると主張されている。 朝廷への届け出や願い出という点は、当時の時点では新たな宗派が出現することは想定外であったことだろう。南都北嶺の八宗派以外の新たなものが出現することは誰も想像できなかった。法然上人という一人の人間の語る言葉には、それほどの衝撃があったのである。 その衝撃に対して、いよいよ本気で何とかしなければならないという対応策を迫られたという感がヒシヒシと伝わってくる奏上文である。 これらの過失はいずれも反論反証できるものであり、すでに法然上人が作られた七箇条制誡で充分対応できるとも考えられるが、大事な点としては興福寺が日本佛教の諸宗派つまり各宗門をまとめて朝廷に対する訴えというところまでいってしまった点である。 比叡山延暦寺での訴えは、あくまで宗門という組織の中の話であったが、これは公(おおやけ)の問題となったのだ。 現代で言えば裁判にまでなったようなものであり、それだけ深刻な問題となったことがうかがい知れる。 しかし法然上人そのものへの批判という性格のものというよりは、法然上人の弟子の不行状を問うものが多く、これは実際にそうであったことで、法然上人の弟子を名乗る者の中に法然上人の教えとは違うことを行うものが多かったからである。 いわゆる異安心(まちがった他力本願念仏の教えを信じ行動する)の者がおり、問題行動を起こしていたからである。 法然上人の真意、それは他力本願念仏思想であるが、法然上人の世間的なお姿は戒を保ち、ひたすら称名念佛を行う「聖」(ひじり)として認識されていたのであろう、それを咎める「法」は佛教にも朝廷にもなかった。だが、弟子の事となればそれは通用しない。弟子の不行状は師匠の不始末となるのである。弟子の行いの責任は師匠が問われる事になる。興福寺奏状に対する朝廷の判断はあくまで法然上人の弟子の不行状を認め、あくまで弟子の中に間違った教えを信じる者がいることを咎める判断であった。これは極めて的を得た判断であるが、これにより興福寺側はさらに批判をヒートアップさせていく。 これは元久二年十月から十二月までの動きである。 翌年、時代は建永元年(一二〇六年)となるとさらなる急展開が待っていたのである。いわゆる建永の法難の始まりである。 比叡山延暦寺での訴えや興福寺による法難は、法然上人にとって試練であったかもしれないが、この先に起こる法難はまさに悲劇的なものとなっていくのである。】
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by hechimayakushi
| 2024-01-01 09:41
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2024年 01月 01日
『私説法然伝』(百五)法然の法難③ 先月号では法然上人の選択集著述以後の歴史的な事柄について書きました。今月号はその続きについて書きます。 【久我通親卿亡き後の朝廷は、九条兼実卿の息子で父と共に政界を追われつつも後鳥羽帝の意向もあり左大臣として政界に復帰していた九条良経卿と、九条兼実卿の亡き兄の孫にあたる右大臣の近衛家実卿という若き摂関家の両名が残された。両名とも若く後鳥羽帝に随うものであり、政界の主導権は後鳥羽帝が握ることになった。後鳥羽帝の時代の始まりである。 後鳥羽帝はすでに土御門天皇に譲位されており、本格的に治天の君として院政を開始する。藤原定家が『明月記』に残したように、その治世は精力的に宮中行事を再興し、朝廷を統率し、まさに治天の君にふさわしいものであった。 建仁三年(一二〇三年)比企能員の乱が鎌倉で起こると、二代鎌倉殿の頼家は事実上失脚し、その弟が三代鎌倉殿となる。後鳥羽帝自ら「実朝」と名乗らせ、実朝もまた親後鳥羽帝であり、執権北条時政とも良好な関係を築き、政治体制は安定化した。 後鳥羽帝の治世によって京の都周辺は政治的に安定していたが、政治的に安定するということは、政治以外で何かと騒がしくなるものである。法然上人の周りもそうであり、門弟や信仰者が増えるほど問題は多く大きくなっていったのである。 法然上人の弟子として、まず比叡山黒谷時代からの兄弟弟子でもあった信空、そして感西がいた。承安五年(一一七五年)の立教開宗以来様々な人々が法然上人の元へ集まるが、文治二年(一一八六年)の大原問答や文治六年(一一九〇年)の東大寺での三部経講説の時期に九条兼実卿の入信や善慧房證空(西山上人)の入門があった。 その後の選択集を撰述する時期までに勢観房源智や聖光房弁長らが入門する。建仁元年(一二〇一年)には後の親鸞聖人となる綽空が入門する。この他にも多数の弟子はいたが、入室の弟子、つまり法然上人と共に生活をしていた直弟子は法然上人の遺言である『没後遺誡文(もつごゆいかいもん)』に記された「但し弟子多しといえども、入室の者僅わずかに七人なり。所謂信空・感西・證空・円親・長尊・感聖・良清なり」とあるようにごく限られたものであった。 法然上人の弟子と言っても多くは法然上人と共に暮らしていたわけではなく、他所で活動していたのである。 法然上人のあずかり知らない所で弟子が法然上人の思惑と違う事を言っても、それは法然上人が言った事と同じ扱いになる可能性がある。佛教における師弟関係とは、そのような面があり、法然上人の教団においてもその面から問題は発生したのである。 元久元年(一二〇四年)法然上人の弟子の言動、おそらくは自分たち他力浄土門こそ正しい教えであり自力聖道門を卑下するようなものであったであろう、そういった言動を問題視した比叡山延暦寺の僧侶が延暦寺の大講堂に集まり天台座主真性に念仏停止を訴えた。元久の法難の始まりである。法難とはインドや中国や朝鮮においての仏教弾圧と排斥の事であり、我が国においては戦乱や政治的な動きによる災難なども含まれるものである。後の日蓮聖人への弾圧や織田信長の比叡山焼き討ちもそうである。 この動きに対して法然上人は「七箇条制誡(しちかじょうせいかい)という起請文を作り対応された。これは法然上人が作られた弟子の言動を戒めるものであり、これに弟子が署名することで弟子の勝手な振る舞いを正そうとされたのである。署名した弟子は一九〇名であり、署名は法然上人に近い弟子からされており、善慧房證空(西山上人)はその四番目に名前がある。この七箇条制誡を比叡山延暦寺に送り、九条兼実卿らの取り計らいもあって、比叡山延暦寺側の訴えは何とか収まりそうであったが、問題はまだ終わらなかった。 法然上人はあくまで比叡山延暦寺の僧侶という「身分」を持っていた。「比叡山黒谷沙門源空」と署名されるように、法然上人はあくまで天台僧であった。なので比叡山延暦寺としても「宗門の中の問題」として納められたのである。そういかないのが南都であった。】 #
by hechimayakushi
| 2024-01-01 09:40
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2023年 10月 18日
『私説法然伝』(百四)法然の法難② 先月号では法然上人の選択集著述以後の歴史的な事柄について書きました。今月号はその続きについて書きます。 【建久九年(一一九八年)久我通親卿はまさに天下を握るが如き状態となる。先例や東国武家政権鎌倉の幕府の意向を無視して立太子していない自らの養女の子で後鳥羽帝の子の土御門天皇の践祚(せんそ・天皇位を受け継ぐこと)を強行する。 これによって事実上、通親卿が権力のトップであることの証明でもあった。「源博陸」(みなもとのはくりく・中国の古事より権力を欲しいままにすること)とも言われるほどの権勢を誇ることになる。 朝廷権力を握った通親卿だが、歴史的に言われるほど強硬路線というわけではなかった。政治路線は東国武家政権との融和路線であり、朝廷においても基本的に融和路線である。当時の源頼朝嫡子は頼家であったが、頼家の左近衛中将昇進をさせている。また頼朝の長女の大姫入内が大姫の悲劇的な死によって不可能となっても頼朝と連携し次女の三幡姫の入内に向けて動いている。朝廷権力を握ったと言えど、事実上最大の軍事力を誇るのは東国武家政権であるため、頼朝との連携は不可欠であったからと言えるが、通親卿の政治的スタンスはあくまで現実主義であるからであろう。 しかし諸行無常の言葉通り、状況は常に変化するもので、同年に頼朝は落馬し波乱の生涯を終えるのであった。正治元年(一一九九年)京都にもその知らせが届き、政界は動揺する。通親卿は頼朝という後ろ盾を失ったことと、政変の予感から難しい対応を迫られることとなった。藤原定家の日記の『明月記』に詳細が残されている。正治元年正月十八日に頼朝の訃報が京の都に届き、すぐに政変(クーデター)の噂が広がる。自らの命が危ないと察知した通親卿は院の御所へ立て籠もる。 京の都には戒厳令がしかれた様になり、その政変の噂はどこから出て誰が何をしているのかが謎のまま二月となる。二月十一日、兵を集めて謀議を行っていたと源隆保(頼朝従兄弟)に疑いがかけられ、公職を解かれる。後藤基清、中原政経、小野義成ら三名が騒動に関わっているとして左衛門尉(さえもんのじょう・武官)ら三名が捕縛される。騒動の関係者が捕縛されていき、騒動の内容が明らかとなった。 捕縛された左衛門尉の三名はいずれも一条能保(いちじょうよしやす)家のゆかりのものであった。一条能保は頼朝の兄妹の坊門姫の夫であり、頼朝の義兄弟であった。三歳で父を亡くし、官職にもつけず苦労したが、頼朝が東国武士政権を確立すると異例の栄進をとげる。頼朝との関係が良好であったのと、頼朝にとっては数少ない信頼できる身内であったからであろう。後白河院にも仕え、九条家や久我通親家と縁戚となり、京都守護職も務めるなど着実に実務をこなし鎌倉政権の京都における最重要人物の一人となっていた。しかし建久八年(一一九七年)に死去し、息子の高能(たかよし)も同年に亡くなっている。この事から一条家の行く末を案じた後藤基清ら一条家ゆかりの遺臣らが謀議を図って政変を起こそうとしたのが騒動の事実であった。 通親卿は鎌倉の事務方トップであった大江広元らと協力し、事態の沈静化を図る。 鎌倉も頼朝死去により混乱があり、鎌倉の政権を安定軌道にのせるためには京都のトップとなっていた通親と協力関係を維持するしかなく、また通親と共に不満分子を排除する絶好の機会でもあった。 通親卿は現実主義者として、鎌倉政権と協力関係を維持しながらも、同時に自らの権力保持につとめた。後に「三左衛門事件」と呼ばれる事件の後は東国・京の都共に安定化する。正治元年から建仁二年(一二〇二年)までの数年間は通親卿の政権が続きまさに我が世の春であったが、世の無常であるように建仁二年十月に通親卿も急死するのである。】
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by hechimayakushi
| 2023-10-18 14:57
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2023年 09月 16日
『私説法然伝』(百三)法然の法難① 先月号では法然上人の選択本願念仏集について書きました。今月号はその続きについて書きます。 【『選択集』を著述されるまでの法然上人の状況は、言わば一つの拡大期のようなものであったと言える。養和一年(一一八一年)法然上人四十九歳の年から、建久九年(一一九八年)法然上人六十九歳までの期間である。この期間において様々な人々が法然上人の弟子や支持者、今日で言う「檀信徒」となられたのである。 法然上人の人生を分けて考えるのなら、お生まれになってから比叡山延暦寺での時代を前半生、承安五年(一一七五年)四十三歳にして他力本願念佛のみ教えを体得され比叡山を下り西山粟生の地にて「浄土宗」の立教開宗をされた年からが後半生となるが、後半生をさらに二つに分けると、四十三歳から建久九年(一一九八年)『選択集』を著されるまでが後半生の前半、または中期と言ってもよいであろう。 時代はすでに源頼朝によって開かれた東国武家政権の時代であり、依然として平安の都には「王権」つまり後鳥羽帝(ごとばてい)が君臨している時代でもあった。 『選択集』が生み出された建久九年同年に十九歳であった後鳥羽天皇は土御門天皇に譲位される。これにより後鳥羽上皇による院政の開始つまり「治天の君」の誕生となる。後鳥羽帝は後白河帝の孫に当たり、壇ノ浦の悲劇である安徳帝の異母弟にあたる。「よろづの道々にあきらけくおはしませ」と『増鏡』に記されるように、文武両道にして行動派の帝であったことは間違いがない。 建久三年(一一九二年)後白河帝の崩御以後は関白九条兼実卿による「摂関政治」が復活し、源頼朝との良好な関係からも政治的に安定していたが、頼朝の娘の大姫の入内問題、これは九条兼実卿の娘の任子がすでに後鳥羽帝に入内しているところへの「横槍」のようなものであった。 源頼朝はあからさまに九条兼実卿との関係を打ち切り、代わって台頭したのが久我通親であった。現在の西山浄土宗、つまり西山派の流祖となる善慧房證空上人の義理の父でもあり、有職故実に通じ摂関家の政治家として優秀であったが、朝廷の政治家としては悪いことが出来ない性格で不向きであった兼実卿とは真逆とも言えるタイプであった。合理性を優先させるタイプの政治家であったのだ。 頼朝からしたら付き合いやすいのは兼実卿よりも通親であったと思われる。自らの政治的野心のための大姫入内であり、その達成のために兼実卿との関係を打ち切り、代わりに政治的パートナーとして通親を優遇するのである。 いわゆる「建久七年の政変」と呼ばれる兼実卿の失脚は頼朝の政治的野心と、朝廷内での反兼実卿勢力の台頭によって起きるのである。反兼実卿勢力とは、九条兼実卿の治世の四年間によって生み出されたものでもある。 九条兼実卿の治世は幼い後鳥羽帝のもとで、まだ生まれたばかりの鎌倉の東国武家政権との共調と提携の中で行われたものである。実の弟の慈円を天台座主に据えて比叡山延暦寺を統制し、歴史上当時としては最大級の戦乱であった源平争乱で荒廃した平安京と南都復興を成し遂げ、何より東大寺復興を成し遂げたのは最大の功績であろうが、朝廷内での「院近臣」(いんのきんしん)を排除する動きで反感を買い、摂関家の氏の長者としてのプライドからの行動が気がつけば敵だらけという状況を招いてしまったのである。 それでも自らの娘の任子に皇子誕生があれば全て違う結果になったかもしれないが、それが叶わず、兼実卿の失脚へとつながるのである。】 #
by hechimayakushi
| 2023-09-16 11:07
| 私説法然伝
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