2014年 03月 04日
3月1日の中日新聞記事において、念仏と講演の会の案内の中で間違いがありましたので訂正させていただきます。 講演が午後3時よりとありましたが、午後2時半の間違いでしたので訂正させていただきます。 どうぞよろしくお願いいたします。 #
by hechimayakushi
| 2014-03-04 23:09
| 寺務日誌
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2014年 02月 23日
2月15日 東充寺にて涅槃会、寺族並びに歴代住職の祥月法要を勤修いたしました。 #
by hechimayakushi
| 2014-02-23 22:59
| 寺務日誌
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2014年 02月 10日
本を読む第三回 『なぜこんなに生きにくいのか』南直哉著・新潮文庫 曹洞宗の僧侶である南直哉師の著作。 しばらく間があいてしまいました。 第二章では主に人が生まれてから死に至るまで、そして「あの世はあるのか?」ということが語られています。 前章にもありますが、「人は自己決定によって生まれてきたわけではない」ということが前提として語られています。 仏教的に物事を見る、つまりは全てが縁起によって成り立っているという見方で人が生まれるということを見れば、人は父親と母親が出会うという縁によって発生する子供が出来るという縁によって生まれるわけです。 そこには「自己決定」というものは存在しないのです。 それは「なぜ生まれてきたか?」ということに自分自身で選んだ「理屈」がないということです。 ですから人は後天的に親や社会から自己を与えられ、成長と共に様々な縁によって「自分とはこういう存在である」と位置づけていくわけですね。 この第二章では著者が恐山にて経験した様々な人々にまつわる事柄が語られています。 特に「あの世」という事柄は私にとっては大事な要素となります。 西山浄土宗、並びに浄土系の宗派は「極楽往生」というものが根本にあります。 極楽往生とは普通の感覚ですと「あの世」となります。 著者もこの本で書いていますが、お釈迦さま自体はあの世というものがあるともないとも語らず、しかし輪廻というものからの解脱を説いていることから初期仏教では「あの世」を否定している、というのが通説となっています。 著者が「死そのものを問うているいる者に死後の話をするのは、旅することの意味を疑っている人間に、行き先の相談をするようなものです」と書いています。 これはつまりお釈迦さまにとっては死後が大事であったのではなく、今生きている事にまつわる事が大事であったということです。 ですから輪廻からの解脱、という事の意味合いも「輪廻なんか無い」というのではなく「輪廻という事を考えることから解脱する」という意味合いになるのでは?と著者は語っています。 では「極楽往生」とは何か? これはまず死後の往生というものが前提となります。 肉体と精神が滅び、阿弥陀如来のいる極楽浄土という世界へ往く、ということになります。 この第二章では恐山にまつわる人々の話が登場します。 一般的に人は死んだら「あの世」それは天国であったり黄泉の世界であったり極楽であったり、人々によって違うイメージの世界へ行くのだと考えられています。 もちろん死んだら「無」になるという考えもあります。 その一般的に死後どこか違うところへ行くというイメージは、生きている間の存在が死んだ後も存在として継続してある、という考えが前提になります。 つまり「私」という人間が死ねばまた「私」としてどこかへ行く、ということですね。 ですので肉体が滅んでも、「私」というものはどこかで存在しているということになります。 だから人々は恐山へ行きイタコの方に頼み、もう一度会いたいと願うわけです。 では浄土仏教で言う「極楽往生」もそうなのか? そこが人々にとっての疑問点、または世間的な問題点となる部分です。 このブログにおいて、先月のことばで登場しました「勝義諦」と「世俗諦」という言葉があります。 「勝義諦」とは言葉にできない真理、「世俗諦」とは言葉などで顕した真理、と捉えられます。 諸説ありますが、私自身は「私が極楽往生する」というのは世俗諦が含まれていると思います。 仏教の思想・真理の根本には「無我説」というものがあります。 無我とは「私というものは様々な要素が依り集まってできたものであるので、その私というものだけで成り立つものではない」というものです。 ですので「死ぬ」ということは肉体を維持する要素が消滅し、それに依る精神も消滅するということですので、「私」というものも消滅することだと言えるのです。 これは人によって考え方が違うので、あくまで私見となります。 死によって私が無くなる、では何が極楽へ往くのか? そもそも極楽は有るのか? では、極楽とは何でしょうか? 極楽は阿弥陀如来という仏の世界です。 仏の世界は三界(欲界・色界・無色界~簡単に言えばこの世~)を離れたものとされています。 つまり肉体も精神も存在しない世界となります。 なので、その世界では「私」という存在も存在することが不可能となります。 そもそも往き生まれるという言葉を使用するのも不適切かもしれません。 当然ながら物質でも精神でもないので存在を規定することができないので、「有る」ものでもないし「無い」ものでもないのです。 それを一言で言えば、我々が認識し表現することが不可能な世界なのです。 しかし、それでは極楽や阿弥陀様のことをお釈迦さまは人々には説けないのです。 なのであえて言葉を使い人々に説いたわけです。 これが「世俗諦」となります。 それは嘘やでたらめではなく、あくまで「勝義諦」を顕すための「世俗諦」となるのです。 では「極楽往生」とは「阿弥陀如来」とは何のためにあるのか?なぜそれを説いたのか? そこが浄土仏教の根本的な部分となるのだと私は思います。 考えられるものとして第一に「肉体並びに精神が滅ぶことで必然的に無我となる=さとりの完成」という考えを顕したのではないか? 第二に「輪廻にとらわれている人の心を仏道に向けさせる為の方便として」という考えがあったのではないか? などがありますが、いずれも私自身の私見ですし、そのことばかりを考え続けていますし、何より「仏のこころ」は私にはわからないので与太話の一つだと思って聞き流していただきたいと思います。 大事な事は、お釈迦さまは世俗諦によって勝義諦を顕し、人々の苦悩を取り除かれたことだと思います。 第二章では「思いを汲む「器」としての仏教」という章段があります。 恐山で育まれた信仰と仏教という教理を基にした宗教とは相容れないはずであるにも関わらず、恐山では人々の死者への思いを汲むための「器」として仏教があると著者は語っています。 そして死というものが近い場所であるからこそ恐山には宗教が育つ、死者を想うことの根本には生死への問いがあると著者は語っています。 続く #
by hechimayakushi
| 2014-02-10 00:43
| 本を読む
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2014年 01月 29日
「法は本より言無けれども、言に非ざれば顕れず。真如は色を絶すれども、色を待ってすなわち悟る」『御請来目録』弘法大師空海 法=真理は本来的に言葉を離れたものであるが、言葉を用いなければ真理をあきらかにすることはできない。 真如=真理は色=この世にあるものを超越しているが、この世のものを通してはじめて悟ることができる。 という意味の言葉。 先月までお釈迦さま(ブッダ)の「さとり」についてと、多少の自分の考えなどを書いてきました。 いろいろな考え方や見方がありますが、この弘法大師空海の言葉ほど私が考える・思う「さとり」というものの性質を表している言葉はありません。 この関係性を表す仏教用語に 「勝義諦」と「世俗諦」というものがあります。 「勝義諦」とは法・真如、つまり仏の「さとり」そのものとなります。 「世俗諦」とは「さとり」を表すためのもの、言葉であったり、物質的なものであったりします。 また、「勝義諦」を覆い隠すものとして「世俗諦」は否定的な意味合いでも使われます。 「勝義諦」、つまり仏の「さとり」は「世俗諦」つまり言葉や物質(それらをまとめて色《しき》といいます)では完全なかたちで「顕せない」が、「世俗諦」つまり言葉や物質でしか表現するしかない、という関係性になるのです。 最近、私はとあるお寺のご本尊様を拝んでふと心が安らぐことがありました。 なぜ安らいだかと言えば、それは「なんとなく」としか言いようがないものでした。 ふと、思いついたのが、仏様のお姿を表した仏像なり仏画に描かれている仏様というものは一体何なのであろうか?ということです。 お釈迦さまの時代から暫くは仏様を直接絵に書いたり彫刻にしたりすることはタブーとされていました。 時代が経て、お釈迦さまのお姿を彫刻で表したりするようになりました。 初期の頃の仏像などはお釈迦さまが苦行されているお姿であったり抽象的なお姿でした。 さらに時代が経て、仏教自体が様々な国や地域に伝えられ、教えも細かく分かれていくと、仏像や仏画もそれに合わせて変化していきます。 より精密になったり、より抽象的になったり、形は様々ですが、私自身が思うには「いかに安らぎや優しさを感じられるようなお姿で表すか」という要素が入ってきたと思っています。 お釈迦さま在世の時代からしばらくはお釈迦さまの「肉声」が伝えられていました。 その時代には経典も無く、もちろん仏像や仏画もありませんでした。 しかし人々はそれでお釈迦さまの示された教え(仏のさとり)を知ることができました。 やがて時代が経ると、「肉声」を伝えることが困難になり、経典が作られ、文字で教えを伝えるようになり、その経典に対する解釈や注釈が行われ、さらに経典の数も増えていきました。 しかし、時代が進むに連れて仏教の細分化が進むと、人々は仏教を学んでもその「さとり」というものが一体何であるのかがわからなくなっていきました。 そこで仏像や仏画を通して仏の「さとり」、または「はたらき」を顕して人々の理解を深めようとしていったのだと思います。 よく「方便」という言葉が仏教には出てきますが、「方便」とは仏の「さとり」を人々に伝えるための手立てという意味です。 つまり仏像や仏画も「方便」と言えます。 先ほど書いた「勝義諦」と「世俗諦」との関係性と一緒の意味合いになります。 仏像や仏画は「さとり」そのものではないですが、「さとり」を表し、知るための手立てなのですね。 また、時代が進み様々な仏様が登場し、様々なはたらきが説かれます。 仏像や仏画はそのはたらきも表しているのです。 以前「仏教には興味がないけど、仏像を見ると心が落ち着く」という方に会いました。 その方の言う仏教とは、おそらく「難しい言葉ばかりの経典」という意味でした。 私は仏像を見て心が落ち着くということはかなりの仏教好きですよ、と話した覚えがあります。 ただ仏像や仏画を見る、それだけでも充分に仏教に入っているのだと私は思います。 #
by hechimayakushi
| 2014-01-29 00:24
| ことば
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2014年 01月 20日
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