2012年 11月 21日
「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」『一枚起請文』より法然房源空 「人の一生は重き荷を背負いて遠き道を行くがごとし」とは、かの徳川家康公の遺訓とされている言葉の一節である。 この「重き荷」とは一体なんであろうか?とよく考える。 ひょっとしたらそれは自分自身なのではないか? 自分自身で「重き荷」を作り出しているのではないか? だが、その「重き荷」を人は後生大事に抱えて生きている。 自分自身がそうであるが、「肩書き」であったり「知識」であったり「名誉」であったり「金銭」であったり、そういったものがないと「自分」が保てないと思い、抱え込んでいる。 「念仏」もまた抱え込もうとして四苦八苦してしまう。 そのような時に法然上人の言葉が身にしみる。 #
by hechimayakushi
| 2012-11-21 13:29
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2012年 11月 04日
2012年 10月 08日
「日本の僧俗、あるいは頌(しょう)をつくり、歌をよみ、名頌の道歌などという事多し。これ「慰み仏法」といふものなり。(略)人貴きことに思へば、自らも仏法と思うて、醜句の様な事をいうものあり。これ「デキ口仏法」といふ物なり。真のほか、いまどき邪解数を知らず。「向上仏法」「サビ仏法」「活達仏法」「ダテ仏法」「悟仏法」「ゴ仏法」。(略)皆これ痛なり」 鈴木正三『驢鞍橋』より 実に良き戒めの文。 「人」が偉いのではない、「仏」が偉いのである。 「仏」が偉い、というのは「教法」が偉いのである。 そこを踏み外すのが「魔境」なのであろうか。 我々はどうしても「値打ち」のある・ないを考えてしまう。 「仏」からみたら「値打ち」なんてものはない。 「仏法」とは「値打ち」から離れることである。 だが、それがなかなか出来ないのもまた、「人」というものである。 #
by hechimayakushi
| 2012-10-08 01:15
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2012年 09月 08日
「他は是れ吾にあらず」道元禅師『典座教訓』より 他人は他人、自分は自分、と多くの人が言う。 だが、これほど他人のやることなすことが気にかかる世もない。 今の世の中に絶対的な価値観は存在しない以上、とにかく他人と比べて自分が幸せか不幸かばかりを考えてしまうし、他人の考えが自分の考えと違うかどうか気になってしょうがない。 「他は是れ吾ならず」とは道元禅師が宋の景徳寺にて修行中に出会った老典座(修行道場の炊事の役職)の言葉。 道元禅師が老典座に「年老いたあなたはなぜ人も使わず作務をされるのか?」という問いの答え。 代理はどこまでも代理で、自らの生(人生)の務めを務めたことにはならない。 自らの生の務めは自ら務める以外にない。 #
by hechimayakushi
| 2012-09-08 10:57
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2012年 08月 09日
「名号に心をいるるとも、こころに名号をいるべからず」一遍智真『一遍上人語録』より 「名号」とは南無阿弥陀仏。 「こころ」とは、「自分の力でなんとかしよう」とするこころである。 極楽往生は自らの力で成すものではない。 阿弥陀仏によって成されるものである。 凡夫というものは常に自らの力でなんとかしよう、何とかできると思い、事象に囚われてしまう。 それを我執という。 よく我執を捨てよ、と言うが我執は捨てられないものである。 覚りとは我執の我なぞない、と覚ることである。 極楽浄土とは覚りそのものである。 覚りも極楽浄土も我執を離れたところにある。 そして、仏教とは覚ることであり、覚ることが仏教である。 俺が、私が、極楽浄土へ往く、のではない。 覚りに俺も私もないのである。 #
by hechimayakushi
| 2012-08-09 20:52
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