2022年 09月 14日
『私説法然伝』(90)助けてほしい⑤ 先月号では法然上人の弟子になる武者・熊谷次郎直実について書きました。今月号はその続きについて書きます。 【文治(ぶんじ)三年(一一八七年)鶴ケ岡八幡宮で開催された放生会(ほうじょうえ)(殺生の罪を滅罪し生善の為に生き物を池などに放つ行事)の催し物の流鏑馬(やぶさめ)(乗馬し的を射抜く)で、的を立てる役に任じられた熊谷次郎直実は、それを不服として役目を果たさず、それが原因で所領を没収されたと言う。さらには育ての伯父の久下直光と所領をめぐる裁判沙汰になる。建久(けんきゅう)三年(一一九二年)すでに鎌倉殿として君臨し、さらには征夷大将軍ともなっていた頼朝の御前にて口頭弁論が行われた。口下手の熊谷次郎直実にとっては裁判は苦痛でしなかったようである。頼朝の質問にも上手く答弁が出来なくて、最終的には梶原景時が良からぬことを頼朝に吹き込んでいるに違いないなどと怒り出し、その場で髷(もとどり)を落として出家すると叫んでしまう。そして実際に髷を切り落として放逐してしまったと言う。裁判の場にはあっけにとられた頼朝が取り残されたと伝えられている。諸説あるが、建久三年以前に出家していたという説もあり、またこの出来事は建久三年以前に起きたのではないか、という説もある。いずれにせよ『吾妻鏡』という鎌倉幕府にとって重要な資料に記載されるほどの事であり、おそらく事実なのであろう。こうして熊谷次郎直実という武者、言い換えれば戦場でしか輝けない根っからの軍人は最高司令官の眼前で全てを投げ捨てたわけである。そして伊豆にいた念佛僧たちから法然上人についての話を聞いた熊谷次郎直実は法然上人のいる京の都を目指すのである。】 ここまでで九条兼実、善慧房證空、熊谷次郎直実という三者が登場いたしました。いずれも三者三様の人生模様です。九条兼実は言わずとしれた藤原摂関家の氏の長者であり、関白という現代で言えば総理大臣職を務める大物政治家でありました。そんな彼がなぜ法然上人に助けを求める事になるのか?善慧房證空は、九条兼実の最大のライバルであった久我通親の猶子(ゆうし)にして実務官僚として確実な未来があったにも関わらず新興教団であった法然上人になぜか弟子入りするという不思議。そして職業軍人であったために戦のない世界では生きる場所を失った男であった熊谷次郎直実がなぜか法然上人と出会い、弟子となり念佛の道へ進むのはなぜか?それらを見つめ直すことで、実は法然上人が何を伝えられていたのか、本願念佛とは何か?ということが浮かび上がって来るのです。
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by hechimayakushi
| 2022-09-14 19:04
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2022年 09月 14日
『私説法然伝』(89)助けてほしい④ 先月号では法然上人の弟子になる武者・熊谷次郎直実について書きました。今月号はその続きについて書きます。 【一の谷の戦い、源平合戦最大級の合戦であるが、その全体像は実はあまり知られていない。義経の逆落としの印象が強すぎるせいだろう。この戦いの全体像は、西日本で数万騎まで盛り返した平家軍と鎌倉方の本体源範頼軍五万六千騎と源義経軍一万騎が平家の本拠地である福原の地でぶつかり合った戦いである。一の谷の戦いとは、福原の地の一部の地名であり、実際にはもっと広範囲で合戦が行われた。、だが源義経という日本戦史に残る「偉業」を達成した男の影響度の大きさによって一の谷の戦い、一の谷の合戦と後年呼ばれる事になるわけである。そして何より恐ろしいのが、義経は七十騎あまりの精鋭の中の精鋭で平家方の大軍勢を急襲した事である。これもまた諸説あり、いわゆる「鵯越」伝説などもあるが、とにもかくにも「逆落とし」という軍馬にまたがり急な斜面、おおよそ馬が降りられるようなところではない山からの敵部隊への奇襲作戦を実際に行ったのは、ほぼ間違いないのである。そして熊谷次郎直実という男はその中にいて、さらにその中の先駆けとして平家軍へ突撃したのである。そしてその結果、平家軍は混乱しながらも一騎駆けの直実は敵に囲まれてしまい、一歩間違えれば確実に討ち取られていたという。直実とは、まさに坂東武者そのものであり、戦ばかりの人生を歩んできた歴戦の強者であり、戦闘のプロフェッショナルである。 合戦は平家方が海へと逃れる形で終わる。平家は強力な水軍を持って、瀬戸内海から九州までを支配していた。逃げるのも当然海である。直実は敵、つまり「首級」を求めて馬を海まで進めた。そこで遭遇したのが平敦盛、若干十七歳ほどの若武者である。若武者というよりは、まさに平家の公達という風貌であり、美しかった。そして平家の公達として、実に堂々としていた。その敦盛を馬から引きずり降ろし、組み敷いて首を切り落とさんとするその瞬間に直実は敦盛の風貌にハッと息を飲み固まった。自分の息子と同じぐらい年齢の若者を殺す事をためらってしまったのである。思わず助けたいと思ってしまった。我が息子が戦の中で小傷を負っただけで心配になるのに、この若者を討ち取ったら、この若者の親はどれだけ悲しむのであろうか、そんな心の葛藤が直実の中で巻き起こってしまった。あの直実、義経軍という最前線の中でさらに先駆けをする程の男がそう思ってしまったのである。だが逃してもいずれ背後から迫る味方の軍勢に追いつかれるのは間違い無い。敦盛に泣きながら必ず供養もすると伝えて討ち取った。 直実はよほどこれが堪えたのだろう。歴戦の強者が戦場でさめざめと泣いたと言う。敦盛の腰の一つの小笛があるのを直実は見つけた。昨夜直実が聞いた笛の音色はこの若者の奏でるものであった。この笛の名を「小枝(さえだ)」と言う。】
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by hechimayakushi
| 2022-09-14 18:54
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2022年 07月 08日
2022年 06月 12日
『私説法然伝』(88)助けてほしい③ 先月号では法然上人の弟子になりたい若者について書きました。今月号は法然上人の弟子になりたい武者について書きます。 【なぜ坂東武者達の中から法然上人の弟子になりたい者が現れたのだろうか? 名だたる武者が法然上人の弟子となっている事実がある。その理由を知るには、どのような武者がどのような経緯で弟子となったのかを知れば、その理由も浮かび上がるかもしれない。 武家・武者出身の弟子の中で最も有名なのが熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)その人であろう。『平家物語』の「敦盛最後の事」で平敦盛を涙ながらに打ち取るのが熊谷次郎直実である。 熊谷次郎直実は、永治(えいじ)元年(一一四一年)武蔵国熊谷郷に生まれた。父の代より熊谷の地を所領としたので、熊谷を名乗った。父の熊谷直貞が早くに亡くなったので、母方の伯父の久下直光(くげなおみつ)に育てられる。保元の乱、平治の乱に参加。十代の頃から戦に参加していたのである。伯父の久下直光の家人として京の都で働く事に嫌気がさして名将であった平知盛に仕えたという。その関係からか、大庭景親(おおばかげちか)が頼朝挙兵に備えて相模国へ帰還する。そに伴い直実もまた関東へ帰還する。その後、頼朝の挙兵時には大庭景親の下で平家方として戦うが、石橋山の戦い以後は頼朝配下の御家人となる。そして頼朝の佐竹攻めで武功を上げ、熊谷郷の所領を安堵されたのだが、この時点で伯父の久下直光とは完全に不仲となった模様である。 源頼朝が「鎌倉殿」として関東の「王」となり、直実は久下直光の配下ではなく、鎌倉殿の配下として独り立ちしたわけである。そして対平家との最終合戦には最前線に配属されるのである。しかも本軍とも言える源範頼麾下ではなく、別働隊または特殊部隊とも言える源義経麾下で戦うのである。 源義経の源平合戦と言えば、一の谷の合戦がまずその筆頭である。言わずとしれた一の谷の戦いの逆落としがあるが、この逆落としは七十騎ほどの精鋭によって行ったと伝えられる。当時の義経軍は一万騎とも言われるているが、義経は総大将として動くのではなく、生まれついての前線指揮官であった。軍勢を分けて動かし、自身はあくまで前線指揮官として最前線の小隊規模を率いた。その中に直実もいたのである。そして逆落としという日本戦史初の特殊部隊による奇襲作戦、その最前線にいたのが彼であった。それが彼という人物がいかなる人物であったのを如実に示しているのである。】
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by hechimayakushi
| 2022-06-12 22:35
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2022年 05月 09日
『私説法然伝』(87)助けてほしい② 先月号では法然がくるということで、九条兼実と法然上人の弟子になりたい若者について書きました。今月号は法然上人と人々ついて書きます。 【戻橋(もどりばし)には安倍晴明によって十二神将を橋の袂に封じられており、必要に応じて招来し占ったという伝承があった。その伝承から生まれたのが戻橋を往来する人の声を聞いて物事の吉凶を占うという橋占(はしうら)である。若者の母親は一人の僧が東の方より歩いてくることに気がついた。僧は観音経の一節を唱えながら、西へ向かって歩んで行ったという。これはきっと佛のお導きに違いないと信じた母は我が子の出家を許すことにしたと言う。 その若者は母親や久我通親卿が勧める名門寺院でのエリートコースには進みたくないという。それよりも最近話題の法然上人の下で出家し、僧侶となりたいと言う。一族揃って反対したというが、ついには根負けしたのか、法然上人の下へ弟子入りすることを許されたという。法然上人と対面した若者は、法然上人からお前に譲れるものは何もないぞと言われる。法然上人は黒谷の経蔵と吉水の坊舎を持っていたが、それらはもう譲る約束をした弟子がいたのである。若者はそんなものは必要ない、自分はただ出離解脱の道を知りたいのだと法然上人に向かって言い切った。法然上人はいたく肝心し、この若者に善慧房證空(ぜんねぼうしょうくう)という名を与えた。そして二十三年間に渡って自分が体得したもの全てを譲り渡した。この善慧房證空という僧侶こそ、現在の西山浄土宗の流れ、つまり法然上人門下の流れの一つである西山派の流祖である(現在残っている法然上人門下流れとしてはもう一つの流れの鎮西派がある) 善慧房證空はとにかく頭脳明晰であった事は間違いが無い。残されている著作等からもそれは裏付けられている。法然上人より佛教の基礎から学び、法然上人より円頓戒(えんどんかい)を授けられ、僧となりさらなる研鑽を積むことになる。證空が入門の時代は法然上人の門下が膨れ上がっていく時代でもあった。法然上人が九条兼実卿とつながり、その信頼を積み重ねていくと、やがて鎌倉にも法然上人の教えが広まっていったのだ。九条兼実卿は親鎌倉派、つまり頼朝と政治的連携を取る事が政治家としての役目でもあった。頼朝ら鎌倉の武士達とやり取りをしている間に自然と法然上人の素晴らしさも伝えられたのだろう。やがて坂東武者達の中からも法然上人の下へ飛び込んでくる者達が現れるのである】
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by hechimayakushi
| 2022-05-09 23:33
| 私説法然伝
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