2023年 08月 19日
『私説法然伝』(百二)④ 先月号では法然上人の選択本願念仏集について書きました。今月号はその続きについて書きます。 【法然上人は『選択集』の書写を限られた門弟のみに許したが、基本的には一度読んだら壁に埋めよとまで書き記したほどである。そこには深い配慮があったことが伺われる。「秘密主義」というものではなく、他力本願念佛という佛の真実は絶対の正しさであるが故に、「凡夫」という正しいものの見方が出来ない存在にとっては危険なものにもなりかねない事がわかっていたからであろう。 必ず救われるのだから何をしても良い、念佛さえ称えたら何をしても良い、逆にただひたすら念佛をたくさん称えることが正しい事である、など極端なとらえかたに支配される可能性があるからである。それを異安心(いあんじん)と言う。法然上人が恐れられたのは、そこであろう。 「佛」の真実とは、究極的には我々には理解できない、それを「他力不思議」と言う。法然上人の最も近くで仕えて「勘文の役」という『選択集』を作り上げるための最重要の役目を与えられた善慧房證空上人や後に関東で他力本願念佛を広められた親鸞聖人は「他力」とは「不思議」、つまり我々には思い考えが及ばぬ力であり、それこそが「本願」であり「念佛」であると人々に伝えられたのである。だが「異安心」であればその理解が出来なくなる。「自分」というものだけで理解してしまう、理解できると思いこんでしまうのである。 「自力」とは自分の力で出来るという意味であるが、それは自分の見方や考え方ややり方でしか理解できない事でもある。 「他力」とは自分以外の見方や考え方ややり方で理解する事でもある。法然上人は自らが学ばれた全てを手放されて「他力」である「本願」と「念佛」に出会われた。それは法然上人は自分の力や能力で出来ないことを自覚されたからこそ、阿弥陀佛という自分ではない「はたらき」を理解できたのである。 自分の眼ではなく、佛の眼で見た自分とは何かというところに「他力」の理解は生まれるのである。 必ず救われるから何をしてもよい、というのは自分の眼でしか見ていないことである。他の異安心もそうであり、真実は佛の力で救われるにしろ、そこに「他力」は何も無いのである。 「他力」とはどう生きるかと言っても良い。それは法然上人が比叡山から下りられての人生を振り返ればそうであったようにありがたい素晴らしいものをいただいた時に人が自然とそうなるような気持ちで生きることなのである。 法然上人は自らがいただいたものは何であったのかを人々に伝えられ、その感謝の中で生きることとされた。それが法然上人のお念佛そのものである。 だからこそ法然上人は厳しすぎるほどに自らを律せられ、報恩感謝という気持ちを体現されたのであろう。】 『選択集』とは法然上人が出会われた「他力本願念佛」そのものを人々にどう伝えられるかという事であります。しかしそれは法然上人にとっては苦悩の道とも言えるもです。なぜなら「他力本願念佛」とは阿弥陀佛という佛そのものの真実でありますから、佛そのものとは何か、ということを言葉に表す事であるからです。 「凡夫」であるということは、佛ではないということですので、佛の言葉ではなく凡夫の言葉でしか佛を表せないのです。 『選択集』はその難しさを体現された書物でもあるのです。しかし「凡夫」とは何か?という事を理解することで、その逆である「佛」とは何か?を理解する道を進むことが出来るのです。 法然上人と善慧房證空上人などが『選択集』を作り上げられる時期は法然上人の下に大勢の「佛」を求められる方が集まる時期でもあります。そこで法然上人が恐れられたであろうことは、「佛」が間違った形で人々に理解されることであったのは確実でしょう。そして法然上人が恐れられたように間違った理解をする人々があらわれてしまうのです。 #
by hechimayakushi
| 2023-08-19 09:56
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2023年 07月 18日
『私説法然伝』(百一)選択本願念佛集③ 先月号では法然上人の選択本願念仏集について書きました。今月号はその続きについて書きます。 【法然上人は『選択集』の第三章においてはっきりと書かれている。豊かな者や賢い者や学問のできる者や完璧な僧侶よりも、貧しい者、愚かな者、学問のない者、戒をやぶる者の方が多く、それら全ての人を救うのが他力本願念佛であると。 それは単なる阿弥陀佛の事実であり、本質的に法然上人が何かを「破壊」したかったわけでも「革命」を起こしたかったわけでもない。あくまで佛とは何か、ということが法然上人にとっての一大事であり、その事実が他力本願念佛という真実であったのだ。 『摧邪輪』で法然上人を批判された明恵上人は若い頃に佛になるために自らの右耳を切り落とし、釈尊を目指すために天竺(現インド)への渡航を計画したほどの熱狂的な佛教僧であり、その生涯において持戒と修行の道を追い求めたまさに佛教に生きた僧侶である。明恵上人がなぜ法然上人を批判されたかと言えば、明恵上人は「佛」を追い求められたからである。だが法然上人もまた同時に「佛」を追い求められたからこそ他力本願念佛という真実にたどり着かれたのである。 他力本願念佛とは、佛とは何か?ということでもある。全ての衆生を救われた阿弥陀佛という佛が他力本願念佛なのである。だが明恵上人の追い求めた佛とは、自らが佛になるための道そのものと言っても良い。戒を守り、自らを律し、修行法を追い求める道である。その道を我々の代わりに阿弥陀佛はやってくださった、などと言われたら明恵上人からしたら「おかしい」と思われるのも無理はない話である。明恵上人という方はあくまで現世における自らの「修道」の方であり、同時にそれを行えるだけに飛びぬけた学識もあった。だからこそ法然上人の真意、それは「他力」の真意が許しがたい事に思えたのだろう。「佛」というものの真実が「絶対」であるならば、その対となる「衆生」つまり自分そのものは救われるだけの「凡夫」でしかない構図が許せなかったのかもしれない。】 現代社会まで続く「他力本願念佛」の教え、これはつまり我々西山浄土宗や浄土宗や浄土真宗や時宗などお念佛の教えを守る各宗派に一貫した考えがあります。「汝是凡夫」と釈尊が仰られたように自分自身というものは佛道修行や功徳を積むための善行を行うことができない、今現在は「佛」にはなれない存在であるという事実。同時に、だからこそ阿弥陀佛という「凡夫」救済の修行を必要として佛となった「佛」という事実。この二つの事実を認めるのが我々にとっての「真実」なのです。 自分のちからでは佛になれない、その事実の一点こそが我々にとっての終着点であり出発点となるわけですが、それが認められないという考え方も当然あります。法然上人は他の考え方を否定されたわけではなく、あくまで今の自分は「凡夫」であるという事実が終着点であり出発点でもありました。だからこそ自分が救われることは誰もが救われる道であると確信されたのです。 この「誰もが救われる」という道は、論理的な構造として「誰もが凡夫である」という事実の発見になるのです。誰もが凡夫であるということは、自分が凡夫ではない、凡夫であることから逃れたいという人にとっては不都合な真実でもあったわけです。 以下次号に続く #
by hechimayakushi
| 2023-07-18 23:30
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2023年 07月 18日
『私説法然伝』(百)選択本願念佛集② 先月号では法然上人が選択本願念仏集をどのように書かれたのか、というところまで書きました。今月号はその続きについて書きます。 【『選択集』の目的はあくまで九条兼実卿に献本するためであった。そして献本し解説する役目を担ったのが善慧房證空上人その人であったという。そのために證空上人が勘文の役を担い、さらに献本のうち下巻の清書も任されたのであろう。 しかし不思議なのは、證空上人は九条兼実卿の最大の政敵であった久我通親卿の猶子であった。そこに法然上人の何かしらの深謀遠慮があったのかもしれないが、今となってはその深意は計り知れないのである。 確実にわかっている事は、明確に法然上人は善慧房證空上人という人に法然上人の体得されたものを全てを伝えられたということである。『選択集』における證空上人の関わりが全てを物語っている。 『選択集』を理解するには、中身を理解する方法と、逆にその批判というものから理解する方法がある。法然上人在世の頃の批判者としては三井寺の大弐僧正公胤によるものがあった。 『観無量寿経』には「読誦大乗」の句があり、つまりは『法華経』などの大乗経典を読誦することで往生は可能であろうという論理によって法然上人の「念佛」を批判されたのだ。だが、後に公胤は法然上人の満中陰(四十九日)の導師を勤められた方である。公胤は自らの批判は間違いであったと己の著書を焼き捨てられた。公胤は法然上人の主張は「念佛を称えたら往生できる」と『選択集』を読んだからで、『選択集』であきらかにされたのは他力本願念佛つまり我々のちからによる往生ではないという点であり、その事を公胤は理解したために、自らの批判は間違いであったと理解できたのであろう。この事からも『選択集』とは法然上人の伝えられたかった事とは、他力本願念佛そのものであったことがわかるのである。 法然上人より後の時代にはなるが、『選択集』の批判で最も有名なのが京都栂尾高山寺の明恵上人である。明恵上人は法然上人を尊敬されていたが、『選択集』を読み、同時に法然上人の門弟の行いなどから法然上人批判に転じたという。そして『摧邪輪』という自らの著作において痛烈に法然上人と『選択集』を批判するであった。 要点としては法然上人と『選択集』は「菩提心」つまり「さとり」を求め佛道を目指す志を否定しているものだと批判したのである。そして浄土門以外の諸宗派を法然上人は否定したと捉えて批判した。 他力本願念佛というものはあくまで阿弥陀佛という佛の「菩提心」つまり全ての衆生を救いとることで佛となる「佛の菩提心」によって衆生は救われるのだという真実を法然上人は伝えられたのであり、それは人々の菩提心を否定するものでも、諸宗派を否定するものでもなかったのである。むしろ菩提心そのものが他力本願念佛なのである。】 以下次号に続く
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by hechimayakushi
| 2023-07-18 23:24
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2023年 07月 18日
『私説法然伝』(九十九)選択本願念佛集① 先月号では法然上人が選択本願念仏集を書かれるところまで書きました。今月号はその続きについて書きます。 【建久九年(一一九八年)法然上人は『選択本願念佛集』を撰述された。撰述とは書物を書き示すことであるが、『選択本願念佛集』略して『選択集』は法然上人一人で書かれたものではない、むしろ法然上人の指示によって弟子達と共に作り上げられたものである。『選択集』そのものの原本は現存していないが、各種伝承や歴史的事実などからいくつかはっきりとしていることがある。 まず「草稿」が作られた模様であり、これは現在「廬山寺本」として京都廬山寺に所蔵されているものである。これは法然上人が口述されたものを弟子がまず書き留めて作成されたものとされる。法然上人は「選択本願念仏集」という内題と「南無阿弥陀佛 往生之業念仏為先」という文だけを書かれたという。第一章から第三章までを真観房感西しんかんぼうかんさい、第十二章までを安楽坊遵西、第十六章までは不明とされていたが、西山浄土宗流祖の善慧房證空上人が書かれたという説が濃厚である。これに勢観坊源智を加えた少数の弟子達によって作成されたという説である。しかし安楽坊遵西は第三章まで書いたところで慢心し、法然上人によりこの「作成チーム」外されたという。善慧房證空上人は「勘文の役」という法然上人の口述される内容が正しいかどうか、経典などの原典を探して確認する役目であった。言わば法然上人の秘書にして校正までを行う役目である。 こうして出来上がった草稿本を元に清書されて九条兼実卿に献上された。その清書された『選択集』は上下二巻であり、上巻を法然上人が、下巻を善慧房證空上人が書かれたと伝わる。残念ながらその本そのものは行方不明であるが、法然上人にとって善慧房證空上人がどれだけ重要な弟子であったかがわかる史実であろう。 『選択本願念佛集』とは、「佛」が選択されたこと、つまり「本願」とは何か、「念佛」とは何か、ということを法然上人が経典などに基づいて説き示されたものである。一切の衆生、全ての人々のために阿弥陀如来は「本願」として「念佛」を「選択」された、その意義を法然上人が論理的に明かされたものというわけである。】 法然上人が撰述された『選択集』とは、法然上人とお弟子達によって作られたものです。そのお弟子の中に西山浄土宗の流祖となられる善慧房證空上人が重要な役目を果たしていたというわけです。それは、それだけ善慧房證空上人という方が法然上人を理解していたという事でもあります。以下次号に続く
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by hechimayakushi
| 2023-07-18 23:15
| 私説法然伝
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2023年 07月 18日
『私説法然伝』(九十八)助けてほしい⑬ 先月号では法然上人に帰依した津戸三郎為守について書きました。今月号はその続きについて書きます。 【もう一つ、ある歴史記録を「逆算」すれば実に明快に事実が浮かび上がってくるものがある。という信西入道の孫にして法相宗の一流の学僧でもあった人が起草したと伝わる法然上人を批判し念佛を批判し規制を訴える『興福寺奏状』(近年の研究では貞慶が関わったのは一部分であるという)の中に「洛辺近国のなれども、北陸東海等の諸国に至っては、専修の僧尼盛んに此旨を以てす」と本願念佛の教えが諸国万民に広がっている事を裏付ける内容がある。 大げさな部分もあるにせよ、法然上人が本願念佛の教えを広められた事の影響の大きさがわかるものである。伝記にも陰陽師や泥棒の天野四郎(耳四郎)などかなり特殊な経歴の持ち主も法然上人を信じたことが書かれている。 これらの人々が法然上人に帰依したのは、法然上人が六十歳から七十頃の事、おおよそ建久三年(一一九二年)から建仁二年(一二〇二年)あたりの事である。五十四歳(文治二年・一一八六年)で「大原問答」があり、それからおおよろ十六年程で日本中にその教えを広められ確実にその教えを根付かせられたのである。 また逆に、その結果を観れば従来の佛教教団からすればまさに「革命」でもあった。たった独りの名もなき僧が、世界を塗り替えたようなものであった。だからこそ後の弾圧につながるのであり、同時にそれだけ本願念佛というものが世界をひっくり返す概念であったことの証明でもある。 建久九年(一一九八年)法然上人六十六歳、人々に教えを広め続けられている中で、法然上人は病に倒れられる。正月から五十日間の念佛法要(別時念佛)を修された。二月に入り風邪をひき、それが悪化したとある。 法然上人はこの時二箇条の(戒めの意味)を遺言として作られた。一つは念佛を守るために弟子たちへの指示であり、もう一つは自分の持つお堂や佛像や(経典)の財産分与についてであった。 法然上人の突然の病を心配した九条兼実卿は、本願念佛の教えをより理解するために、そして自分への形見として何か本願念佛の教えの要となるものを作って欲しいと懇願された。 法然上人にとってまた一つの転機となる『』の編纂の始まりである。】
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by hechimayakushi
| 2023-07-18 22:59
| 私説法然伝
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