へちま薬師日誌

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2018年 03月 13日

私説法然伝38

『私説法然伝』(38)王家と平家の時代③

 先月号では後白河天皇と信西入道の目指した政治の動きに関して書きました。今月はその同時代の動きについて書きます。

【保元(ほうげん)の乱の勝利者は後白河天皇と信西入道であると言えるが、その勝利の決め手となったのが有力軍事貴族であった平清盛(たいらのきよもり)・源義朝(みなもとのよしとも)らであった。院政期において活発化した貴族の軍事化と武士団の発展であるが、それは各地方での経済活動の活発化に伴ったものである。奥州、つまり現在の東北地方は前九年(ぜんくねん)の役・後三年(ごさんねん)の役という戦乱を経て奥州藤原氏が支配する土地となっていた。その影響は現在の北海道南部まで及んでいた。当時の北海道には擦文(さつもん)文化人とオホーツク文化人が定着しており、奥州藤原氏はそれらの人々と津軽海峡を通じて人や物の交流を行なっていた。オホーツク文化人はアムール川流域の人々とも交流があり、それをたどれば当時の中国北部の覇権を握った女真族・金王朝との繋がりも伺える。当時の奥州は大陸との交流があったのである。それは様々な物品をもたらした。そして奥州で算出される多数の金、増加した摂関家の荘園地。藤原頼長卿が奥州藤原氏の主であった藤原基衡(ふじわらのもとひら)に荘園からの年貢の徴収と金の献上を増やすように求めたという。基衡はそれに応じて、さらに馬や漆などを摂関家に送り、「中央」との結びつきを強めた。さらにその交流が日本海海運などの物流の発展を生み出し、奥州に京の都の文化が流入し、絢爛な平泉の文化が生み出されたのである。
 院政期末というのは各勢力の独立独歩の発展の時代である。奥州藤原氏はその代表格であり、先に登場した神人・悪僧(じにん・あくそう)もそうであり、様々な職能人のギルド的集団、経済の発展に伴い増えた金融業者など、それぞれが独立独歩の発展をとげたのである。それに対して統制を強めたいのが「中央」、つまり摂関家であり天皇=王家であり、まとめて呼称するならば「朝廷」となる。
 北方における大陸との繋がりが奥州藤原氏にあったならば、「中央」から見てもう一方の交流点が西方・九州からの交流となる。白河帝により造営された鳥羽離宮は、桂川と鴨川のすぐ側にあった。京都南郊にあった巨椋池や宇治川にも近く水郷地帯となっていた。この鳥羽離宮の半分は池になっていた。桂川・鴨川は合流して淀川となり、大阪湾へと繋がっている。そして瀬戸内海へと繋がっていたのである。鳥羽離宮は海上交通の要所であったのである。この海の道は宋との交流の道であった。白河帝の後の治天の君であった鳥羽帝がこの海上交通を押さえる為に重用したのが伊勢平氏の棟梁であった平忠盛(たいらのただもり)であった。】

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# by hechimayakushi | 2018-03-13 09:58 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 02月 21日

私説法然伝37

『私説法然伝』(37)王家と平家の時代②

 先月号では保元元年の後白河天皇の新政の開始と信西入道について書きました。今月はその同時代の動きについて書きます。

【保元の乱において、後白河天皇が勝利者となれたのも信西入道の力によるところは大きい。後白河天皇の乳母は信西入道の二番目の妻である。鳥羽法皇崩御の後はその葬儀を取り仕切り、保元の乱に至る藤原頼長卿らが荘園から兵を集めることを禁止した後白河天皇の綸旨(りんじ)(天皇の命により発行される命令書)等の一連の措置を取り仕切ったのも信西入道と言われている。保元の乱により反対派を一掃することに成功した後白河天皇・信西入道であるが、後の天台座主であり関白藤原忠通卿の息子である慈円は『愚管抄(ぐかんしょう)』において「日本国ノ乱逆(らんぎゃく)ト云ウコトハ起リテ後、武者ノ世ニナリニケルナリ」と書き記したように、この保元の乱を契機として武者、つまり軍事力によって政治的な決着をつける時代へと転換した。そしてこれが後の信西入道の命運を決めることに繋がる。
 信西入道は藤原頼長卿と同じく、実権を握ると政治的改革を始めた。先に記した保元元年令を打ち出し、次々と改革の政策を実行していく。具体的には荘園の整理である。記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいしょ)を新たに設置し、強権的に各地の荘園の整理が行われた。それにより荘園の支配体系が天皇=王家を頂点とした統治下にあるものとされた。荘園の整理と並んで各寺社の統制もなされた。神人(じにん)と呼ばれる神社に属する神事や社務の補助・雑務に当たった人々はこの時代では、神社の権威を背景に様々な利権を獲得しており、警護なども担った事から武装もしており、一大勢力となっていた。寺院においては悪僧・僧兵の勢力が神人と同じく拡大しており、強訴(ごうそ)を繰り返し、金融活動を繰り広げていた。寺社仏閣勢力の統制はかつて絶大な権勢を誇った白河法皇ですらなし得なかったことである。「天下三不如意(てんかさんふにょい)」と呼ばれる①鴨川の水②双六の賽(さい)③山法師だけは白河法皇の権勢を持ってしても何ともならなかったのであった。鴨川の水とは氾濫を繰り返していた鴨川の流れ、双六の賽とはサイコロの目のことであり、これらは自然現象や運の事である。山法師とは寺社仏閣の勢力のことである。後白河天皇と信西入道は保元元年の新政によって寺社仏閣の勢力の統制に乗り出したのである。下賀茂神社・上賀茂神社など八社の神人の定員を定め名簿の提出を義務化した。そして比叡山延暦寺や園城寺の悪僧等の活動を抑制した。これにより天皇の名において寺社仏閣の勢力は統制され神仏に準ずる存在と位置づけられた。さらに後白河・信西政権は翌年に三十五ヵ条の新制で官人・職能集団のあり方を定め、検非違使(けびいし)庁の再編と治安対策の強化を行った。そして内裏(だいり)の再建を行った。天皇=王家を頂点とした国家の再編と新たな構築を行ったのである。一見するとこれらの改革は順調のように思えたが、全てが後白河・信西の思い通にはならなかった。】

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# by hechimayakushi | 2018-02-21 16:20 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2018年 01月 12日

私説法然伝36

私説法然伝』(36)王家と平家の時代①

 先月号では法然上人の模索そして『観経疏(かんぎょうしょ)』へとつながる流れについて書きました。今月はその同時代の動きについて書きます。

【法然上人が経蔵にて籠もられ極楽へのの道を求められている時、世の中もまた模索の時代であった。保元元年(ほうげんがんねん)(一一五六年)の争乱によって藤原摂関家の権勢はほぼ失墜した。その後に台頭するのが軍事貴族、つまり武家である。後の世に院政期と言われる時代は突如として始まったわけでもなく、突如として終わったわけでもない。武家の時代となる、と言ってもある日突然に始まるわけではないのである。保元元年の争乱の後、徐々に変化が始まっていった。
 保元の乱の最終的な勝利者は後白河天皇であった。後白河天皇は鳥羽法皇と待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)との間に生まれた六番目の子である。兄である崇徳上皇と「治天の君」の座を争ったのが保元の乱であったが、後白河天皇は治天の君として何をしようとしていたのだろうか?保元元年九月十八日保元元年令と呼ばれる七か条の宣旨を下した。第一条には「九州之地者一人之有也、王命之外、何施私威」ある。九州とは全国の事であり、全国はただ一人「治天の君」のものであり、王命以外に私的な威光を示すことはできない、つまりは各地にある荘園という私的な領地も含む日本国の土地の全ては最終的に「治天の君」である後白河天皇のものであるという宣言である。これを「王土思想」と言う。長く続けられてきた「荘園整理令」の一つでもあり、後白河天皇の親政の開始の宣言でもある。この宣旨に関わったのが信西入道(しんぜいにゅうどう)である。信西入道は学者の家系の出で、元は藤原通憲(ふじわらのみちのり)と言い、幼くして父を亡くし高階(たかしな)家に入って高階通憲となりその才覚を現す。しかし高階家では学者としての出世は叶わず、院の近臣・実務官僚となりたくても当時は勧修寺流(かじゅうじりゅう)藤原家がその座を独占していた。自らの人生に失望し、出家の気持ちが芽生えた通憲は、当時日本有数の大学者と名高い藤原頼長卿とも面談している。その才覚を惜しんだ頼長卿からは出家を思いとどまるように願われるが「自分は運がなく出家の道を選ぶが、頼長卿はどうかそんな事はなさらぬよう」と伝え、頼長卿は涙を流したと日記にある。その才覚を惜しんだのは鳥羽法皇も同じであり、思いとどまるように願ったが、通憲は出家をし信西入道となった。
 しかし出家し出世の道は諦めたものの、その才覚と辣腕を振るう事を諦めたわけではなかった。出家し墨染めの衣を身に着けていても、心まで染まるつもりはない、と歌まで残している。鳥羽法皇のブレーンであった藤原顕頼没後には信西がブレーンの座に入る。そして保元元年の争乱が始まったのである。】

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# by hechimayakushi | 2018-01-12 00:04 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 12月 14日

私説法然伝35

『私説法然伝』(35)極楽への道⑩

 先月号では「恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)」の『往生要集』に導かれるように法然上人は「念佛」の模索を始められたことについて書きました。今月はその続きになります。

【法然上人の模索の過程に関して『法然上人行状絵図』によると、恵心僧都源信の『往生要集』は善導大師(ぜんどうだいし)の「注釈」を「指導の書」としており、法然上人はその「注釈書」である『観経疏(かんぎょうしょ)』(観無量寿経疏・観無量寿経の注釈書)を読まれた、とある。『往生要集』から善導大師の『観経疏』へという過程ということである。しかし、その流れで後の法然上人の到達されたところである「本願念佛(ほんがんねんぶつ)」(佛の本願により往生する)へは到達できるのであろうか?おそらく一本道では到達できなかったであろう。法然上人は天台の教えをはじめとして諸宗の教えに通じておられた。『往生要集』だけが「先達の書」ではなかったと考えられている。念佛者であった永観禅師(ようかんぜんじ)は『往生拾因(おうじょうしゅういん)』においてひたすら称名の念佛こそが勝れているとし、画僧として有名な珍海も称名は「正中の正因」としている。だがいずれも「凡夫」が「凡夫」のままで救われるということを示していない。法然上人の到達点はそこにはなかった。愚勧住信(ぐかんじゅうしん)の『私聚百因縁集(しじゅひゃくいんねんしゅう)』には法然上人三十三歳の時に専修念仏の道へ進まれたとある。永万元年(一一六五年)の頃である。法然上人が『往生要集』を始めとして、様々な「念佛の道」に出会われ、そして『観経疏』と本質的に出会われていったのが法然上人三十三歳ごろであったのではないだろうか?それはまだ到達点とは言えないにしろ、法然上人に示された「極楽への道」であったのではないか。経蔵に籠もり苦しみの中のでの模索であったが、確かに法然上人は一つの到達点へと近づいていったのである。】


法然上人は『法然上人行状絵図』に記された「過程」でだけではなく、実際には様々な書物などを通して模索を重ねられたと言えます。永観禅師『往生拾因』などはその代表的なものだと言えます。そして善導大師の『観経疏』という圧倒的な存在とも言える書物に立ち向かっていかれた、と言うと大げさかもしれませんが、法然上人にとってはまさに人生をかけて「極楽への道」を歩まれていたのがこの時期であったのです。

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# by hechimayakushi | 2017-12-14 23:16 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 11月 11日

私説法然伝34

『私説法然伝』(34)極楽への道⑨

 先月号では「恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)」という方の書かれた『往生要集(おうじょうようしゅう)』について、また源信の始めた念佛結社「二十五三昧会(にじゅうござんまいえ)」と「臨終行儀」などについて書きました。今月はその続きになります。

【恵心僧都源信が目指した「念佛」とは一体何であったのだろうか?源信の考えに従って作られた『往生要集』と「二十五三昧会」の二つがその両輪である。そして源信は念佛の中で「理観(りかん)の念佛」(念佛を通して空を覚り三昧に至る)を理想とし、それが出来ない者は「色相観(しきそうかん)の念佛」(阿弥陀佛の姿を想い描く)を行い、それが出来ない者は阿弥陀佛に深く帰依して極楽浄土へ往生したいという「念」(菩提心)を元にして称える「称名(しょうみょう)の念佛」があるとした。源信にとっての念佛はあくまで天台宗の思想に基づくものであり、称名の念佛はあくまで付随的なものであり、天台的な捉え方であったと言える。法然上人もまた『往生要集』を読んだ。後に『往生要集』に導かれて浄土佛教の道へと入ったと述べられている。理観の念佛を至上とする『往生要集』と後の法然上人の思想は相容れない。しかし『往生要集』の「思想」が持つ構造、「難」から「易」というところに着目されたのだと考えられる。常識的に考えれば、簡単な事からはじめてより難しい事を習得していくことが一つの「道」である。しかし法然上人はそこに疑問を持たれたのだと言える。理想的だが難しく実現不可能な方法を源信が伝えたかったのではない、もっと根本的に違う何かが有るのではないか?と法然上人は考えられたのではないだろうか?そして『往生要集』をスタートとして、法然上人は様々な「念佛」を模索されていくのである。】

法然上人は長い時間をかけて「念佛」とは何か?を模索されることになるのですが、そのスタートラインと言えるのが『往生要集』となったのです。法然上人は『往生要集』とそれに基づく「二十五三昧会」で行われている事に着目されたのではなく、源信僧都の思想の展開の構造に着目されていたことが大切なポイントだと思います。そして法然上人は『往生要集』の構造理解を通して浄土佛教というもの、または佛教全体を見直されようとしていたのではないでしょうか?

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# by hechimayakushi | 2017-11-11 16:36 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)