へちま薬師日誌

toujyuji.exblog.jp
ブログトップ
2017年 10月 14日

私説法然伝33

『私説法然伝』(33)極楽への道⑧

【恵心僧都源信、寛和(かんな)元年(九八五年)に『往生要集(おうじょうようしゅう)』三巻を撰述された。この書物がどうして日本人の精神性に影響をあたえるほどの書物であったのか?まずは『往生要集』がどのような書物であったのかをまとめる必要がある。『往生要集』は十門つまり十の構成となっており、約百六十以上の経典などを選び出し、引用し、文章を構成している。その構成は厭離穢土(えんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)・極楽証拠・正修念佛・助念方法・別時念佛・念佛利益(ねんぶつりやく)・念佛証拠・往生諸業・問答料簡の十の章段となる。その内容を簡潔に言えば「この迷いの世界を離れて阿弥陀佛の世界=西方極楽浄土に生まれるには正しい念佛が必要である」ということになる。今日において『往生要集』と言えば「地獄」の描写が最も有名である。これは厭離穢土の章段に仔細(しさい)に記されている。苛烈(かれつ)極まる地獄の姿と対照的に西方極楽浄土の素晴らしさが強調され、そして念佛によって西方極楽浄土へと往生する、その念佛とはどのようなものかと源信は『往生要集』に全てを集約したのである。この書物が当時の人々に与えた影響は大きく、特に「地獄」のイメージを日本人に植え付けたのは『往生要集』によるところが大きい。また、日本のみならず当時の宋の国へと送られ絶賛されている。
 そして『往生要集』を基として「念佛結社」が作られるようになった。「念佛結社」とは東晋の僧侶慧遠(えおん)によって結成された「白蓮社(びゃくれんしゃ)」がそのルーツと言えるもので、同士が集まって念佛の実践を誓い、念佛を行うものであった。これを中国における浄土佛教の始まりともされている。『往生要集』の中では「臨終行儀(りんじゅうぎょうぎ)」として記された念佛の実践方法を基にして、葬送儀礼を追加したものが源信の打ち立てた念佛結社であり、それを「二十五三昧会(にじゅうござんまいえ)」と言う。この「二十五三昧会」を元に各念佛結社が作られていったのである。それはつまり念佛の実践が広がり、根付いていたったことと言える。 
この「二十五三昧会」とは、源信とその法友慶滋保胤ら二十五名の僧侶が横川首楞厳院(よかわしゅりょうごんいん)にて毎月十五日羊(ひつじ)の時刻、午後二時ごろ集まり、法華経の講義の後に回向と起請文が読まれ、その後は翌朝の辰(たつ)の時刻つまり午前八時までひたすら念佛三昧を目指すというものであった。そして結社の構成員・結衆は互いに扶助し規律を守り、病を得た者がいれば往生院という阿弥陀佛像が安置された堂に移し、病人の看護をし、西方に向けられた阿弥陀佛像の後ろに病人を置き、阿弥陀佛と病人を五色の旙(はた)(五つの色の布)で結び、西方極楽浄土へ往生する想いをこらさせる。往生を遂げた者は同じ墓所へ埋葬し、念佛会(ねんぶつえ)を行ったという。】

[PR]

# by hechimayakushi | 2017-10-14 20:34 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 09月 11日

私説法然伝32

『私説法然伝』(32)極楽への道⑦

 先月号では「比叡山延暦寺にはじまった念佛の流れから生まれでた空也上人」について書きました。今月はその続きになります。

【空也上人が活躍する時代にもう一人比叡山延暦寺における浄土仏教・念佛の流れにおいて最重要人物となる僧侶が生まれた。その僧侶こそが恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)である。天慶(てんきょう)五年(九四二年)大和国北葛城郡当麻にて、父・卜部正親(うらべまさちか)と母・清原氏の間に生を受けた。幼くして父と死別し、信仰心の篤い母によって育てられる。九歳にして比叡山延暦寺へと登ったと伝えられている。師は天台宗中興の祖と誉れ高い慈恵大師良源(じけいだいしりょうげん)僧正である。ありとあらゆる学問を学び、それら全てを吸収し、咀嚼する才覚が間違いなくあったと言えるのが恵心僧都源信という人である。師であり学僧としても名高い良源は己の持てる全てを源信に注ぎ込んだと言っても過言ではない。源信は母の諌めもあってか比叡山においての名利栄達の道を捨て去り、横川(よかわ)にある恵心院(えしんいん)にて隠遁(いんとん)し、ひたすら求道の一生を送ることになる。そして四十四歳の時に『往生要集(おうじょうようしゅう)』という書物を完成させた。日本人の精神性に多大な影響を与えることになった偉大なる書物である。】

 空也上人の時代はまさに浄土仏教・念佛の教えが日本中に広まるはじまりの時代と言えます。空也上人が活躍されている同時代に恵心僧都源信が生まれました。幼いころに父と死別し、比叡山へと登られたのは法然上人と通じるものがあります。
 有り余る才覚と他を寄せ付けぬほどの勤勉さで勉学に励み、『今昔物語集』には「三条の太后の宮の御八講』(法華八講・法華経の講義を行う法会)に呼ばれたとあり、また「広学竪義(こうがくりゅうぎ)」(天台宗の僧侶としての最終試験のようなもの)では問題に対するその答えの素晴らしさなどにより、その名声は広く知られていましたが、布施で源信が手に入れた品々を母に贈ったところ「遁世修道こそが我が願い」という言葉と共に布施の品を送り返されたと言い、また源信自身の思う所によって比叡山の三塔の一つの横川というところにある恵心院で隠遁することになったのです。

[PR]

# by hechimayakushi | 2017-09-11 00:53 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 08月 07日

私説法然伝31

『私説法然伝』(31)極楽への道⑥

 先月号では「日本における念佛のはじまり」について書きました。今月はその続きになります。

【比叡山延暦寺にて確立された「山の念佛」とはどのようなものであったのだろうか。源為憲(みなもとのためのり)が記した『三宝絵詞』によれば「秋八月の風涼しい時、中旬の月の明るい頃、十一日の暁から十七日の夜に至るまで、不断に行じられる」とあり、また「身は常に阿弥陀佛を廻(めぐ)るから、身の罪はことごとく無くなってしまう。口には常に経を唱えるから、口の咎(とが)が消えてしまう。心は常に佛を念じるから、心の過ちはすべて尽きてしまう」と記されている。そして重要となるのが「阿弥陀経に、若(も)し一日、若し二日、若し三日、乃至七日、一心不乱臨終の時に心顛倒(てんどう)せずして、即ち極楽に生まれると。七日間に限るには、この経説に依る」とある。身と口と心、すなわり私たちの身体と行いが作り出す「罪」を念佛によって消し去ることによって極楽浄土へ生まれる事ができるようになるという理解がなされていたのである。この比叡山における念佛の流れの中から生まれでたのが空也(くうや)上人と恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)である。空也上人は今日では空也上人像が有名である。平安時代中頃の僧侶で、阿弥陀聖(あみだひじり)とも市聖(いちのひじり)とも呼ばれる。延喜二十二年(九二二年)尾張国分寺にて出家し、在俗の僧侶として諸国を廻り「南無阿弥陀佛」と称えながら道路や橋、寺院建立などの社会事業を行ったとされる。やがて比叡山延暦寺にて授戒し「光勝」という名を授かる。六波羅蜜寺の本尊十一面観音菩薩立像は天暦五年(九五一年)に空也上人が西光寺を創建した際の本尊とされている。鴨長明(かものちょうめい)編の『発心集(ほっしんしゅう)』には「これを我が国の念仏の祖師と申すべし」と空也上人についての記述がある。空也上人は鉦(かね)や太鼓などの楽器を用いた踊り念仏をおこなったと伝えられる。市井の中において口称の念佛を人々に伝えられたのである。その影響は後世の念佛者たちにも与えている。】

 比叡山延暦寺においてはじまった浄土仏教の流れ、それを「山の念佛」とも言いますが、その中で様々な僧侶たちによってその流れがさらに発展していくことになります。特に有名なのが空也上人と恵心僧都源信です。空也上人について知る人は少なくとも、京都の六波羅蜜寺に伝わる康勝作の「空也上人像」を知る人は多いでしょう。空也上人は「聖(ひじり)」と呼称される、諸国を廻りながら勧進(かんじん)(布教活動と寄付の募集活動)を行う僧侶でありました。

[PR]

# by hechimayakushi | 2017-08-07 22:55 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)
2017年 07月 13日

8月のお知らせ

8月の12日は薬師縁日をお休みさせていただきます。
またお盆期間中の12日より17日までご祈祷をお休みさせていただきます。


[PR]

# by hechimayakushi | 2017-07-13 00:23 | 寺務日誌 | Trackback | Comments(0)
2017年 07月 13日

私説法然伝30

『私説法然伝』(30)極楽への道⑤

 先月号では「阿弥陀佛と本願」について書きました。今月はその続きになります。

【日本に佛教が公(おおやけ)に伝わったのは欽明天皇(きんめいてんのう)の時代、壬申(じんしん)の年・五五二年とされている。それ以前の戊午(つちのえうま)の年・五三八年説もある。また渡来人によって私的に伝来していたという説もある。いずれにせよ欽明天皇の時代六世紀なかば頃にもたらされたものと考えられている。その中にもちろん阿弥陀佛と、その信仰の中心となる浄土三部経(じょうどさんぶきょう)をはじめとする各種の経典類がもたらされたと考えられている。来世への往生という考え方は早くから注目されており、阿弥陀佛信仰・西方極楽浄土への往生思想(二つを合わせて「浄土仏教」とする)は日本において広まりを見せていた。本格的な研究のはじまりは奈良時代からであり、南都の各宗派で多数の学僧が経論を学んだ。日本における浄土仏教の確立という観点で言えば平安時代のはじまり、桓武天皇の時代からと言える。それは最澄と空海という日本佛教改革者の登場によってもたらされる。二人は中国で学び、帰国して日本の佛教の新たな道を切り開いた。その二つの流れが天台宗と真言宗であり、それぞれに浄土仏教の思想が取り込まれている。その中で最も重要となるのが天台宗における浄土仏教の思想と言える。最澄は修行法の中の一つに常行三昧(じょうぎょうざんまい)と呼ばれる修行法を設定した。それは常に行道をしながら口に南無阿弥陀佛と称え、心に阿弥陀佛を思い浮かべる、というものであった。これが日本天台宗・比叡山延暦寺における「念佛」のはじまりとなり、それを発展させたのが最澄の弟子の円仁(えんにん)である。円仁は最澄と同じく唐に渡り、様々な困難や出会いにより五台山(ごだいさん)へと登る。そこで出会ったのが唐の僧侶・法照(ほっしょう)により初められた五会念佛(ごえねんぶつ)であった。五会念佛とは、五種類の音声からなる音楽的な称名の念佛である。日本へと戻った円仁は比叡山に常行三昧堂を建立し、五会念佛三昧法として、念佛三昧行・不断念佛(ふだんねんぶつ)を行うようになった。これが後に「山の念佛」と呼ばれる比叡山における浄土仏教の確立と言えるものである。】
 
 日本へと佛教が伝来した時点での佛教の広まりであったり、人々の信仰がどのような形であったのかは、はっきりとしないことも多々あります。しかし、早い時期から往生思想、兜率天と呼ばれる弥勒菩薩の浄土への往生思想などが信仰されていたことからもわかりますように、日本の人々にも「往生」というものが受け入れられていたことが理解できます。また、奈良時代には南都の佛教、平安時代には最澄と空海によって切り開かれた佛教、特に最澄の開いた比叡山延暦寺における「念佛」が日本における念佛の形を決定づけることになったのです。最澄の弟子の円仁は、実に数奇な人生を送られた方です。『入唐求法巡礼行記(にゅうとうぐほうじゅんれいこうき)』という世界三大旅行記の著者として世界的にも有名な僧侶なのであります。

[PR]

# by hechimayakushi | 2017-07-13 00:21 | 私説法然伝 | Trackback | Comments(0)