2022年 05月 09日
『私説法然伝』(87)助けてほしい② 先月号では法然がくるということで、九条兼実と法然上人の弟子になりたい若者について書きました。今月号は法然上人と人々ついて書きます。 【戻橋(もどりばし)には安倍晴明によって十二神将を橋の袂に封じられており、必要に応じて招来し占ったという伝承があった。その伝承から生まれたのが戻橋を往来する人の声を聞いて物事の吉凶を占うという橋占(はしうら)である。若者の母親は一人の僧が東の方より歩いてくることに気がついた。僧は観音経の一節を唱えながら、西へ向かって歩んで行ったという。これはきっと佛のお導きに違いないと信じた母は我が子の出家を許すことにしたと言う。 その若者は母親や久我通親卿が勧める名門寺院でのエリートコースには進みたくないという。それよりも最近話題の法然上人の下で出家し、僧侶となりたいと言う。一族揃って反対したというが、ついには根負けしたのか、法然上人の下へ弟子入りすることを許されたという。法然上人と対面した若者は、法然上人からお前に譲れるものは何もないぞと言われる。法然上人は黒谷の経蔵と吉水の坊舎を持っていたが、それらはもう譲る約束をした弟子がいたのである。若者はそんなものは必要ない、自分はただ出離解脱の道を知りたいのだと法然上人に向かって言い切った。法然上人はいたく肝心し、この若者に善慧房證空(ぜんねぼうしょうくう)という名を与えた。そして二十三年間に渡って自分が体得したもの全てを譲り渡した。この善慧房證空という僧侶こそ、現在の西山浄土宗の流れ、つまり法然上人門下の流れの一つである西山派の流祖である(現在残っている法然上人門下流れとしてはもう一つの流れの鎮西派がある) 善慧房證空はとにかく頭脳明晰であった事は間違いが無い。残されている著作等からもそれは裏付けられている。法然上人より佛教の基礎から学び、法然上人より円頓戒(えんどんかい)を授けられ、僧となりさらなる研鑽を積むことになる。證空が入門の時代は法然上人の門下が膨れ上がっていく時代でもあった。法然上人が九条兼実卿とつながり、その信頼を積み重ねていくと、やがて鎌倉にも法然上人の教えが広まっていったのだ。九条兼実卿は親鎌倉派、つまり頼朝と政治的連携を取る事が政治家としての役目でもあった。頼朝ら鎌倉の武士達とやり取りをしている間に自然と法然上人の素晴らしさも伝えられたのだろう。やがて坂東武者達の中からも法然上人の下へ飛び込んでくる者達が現れるのである】
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by hechimayakushi
| 2022-05-09 23:33
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2022年 04月 12日
『私説法然伝』(86)助けてほしい① 先月号では法然がくるということで、俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)と法然上人について書きました。今月号は法然上人と人々ついて書きます。 【法然上人が世の人々に知られるようになったのが平家滅亡後の時代、文治(ぶんじ)二年(一一八六年)の大原問答から文治(ぶんじ)六年(一一九〇年)または建久(けんきゅう)二年(一一九一年)東大寺講説にかけてである。同時に法然上人のもとに様々な人々が集いだした時期にもなる。 九条兼実卿が初めて自宅に法然上人を招いたのが文治五年(一一八九年)八月一日のことであったと兼実卿の日記『玉葉(ぎょくよう)』にある。法然上人の事を信頼した兼実卿は度々法然上人を招いて「授戒(じゅかい)」を行う。今日も「授戒」は行われている佛教儀式である。だがここでの「授戒」とは今日行われているものとは性質の違うものであったようである。現世利益を求める授戒であったのは兼実卿の日記の記述などから読み取れる。法然上人の「授戒」は効験がある、つまりご利益があると記述している。当持は戒律を守ることで悪いことが起こらない、我が身を守ることができるという考え方があった。兼実卿もその考えに基づいて法然上人の「ご利益」に助けをもとめたのである。 それもまた今日的な価値観で見れば奇怪にも思えるし、法然上人の思想というものから考えたらおかしく思えるが、法然上人と兼実卿の関係性は次第に変化していく。兼実卿は法然上人の話を聞くことで本願念佛の教えを受け入れる様になっていく。そして兼実卿という類まれな才覚と名門藤原家の氏の長者、そして摂政関白という位人臣を極めた男が心の底から助けを求める事になるのが法然上人であり本願念佛となるのである。 法然上人と九条兼実卿が出会い交流を深めるのと同時期に法然上人のもとへ一人の若者が弟子になりたいと訪ねてくる。村上源氏の加賀権守源親季(かがごんのかみみなもとのちかすえ)の長男として生まれ、九歳の春に、同族の久我家である内大臣久我通親(こがみちちか)卿の猶子となったその童子は非常に秀才であったのだろう、九条兼実卿と政治的に対立しやがて頼朝をも翻弄し政界を牛耳るほどの人物である内大臣久我通親卿の下で学び将来は朝廷でその才覚を余すこと無く振るうべき存在であったが、なぜか元服を前に出家したいと言い出したという。家族は元服するように説得を重ねるが、その若者はどうしても出家したいと言う。 困った実母が占いに助けを求めた。当時は占いで物事の善し悪しを決めることは普通のことであった。ある日、実母は朝早くに京の都の一条戻橋へとでかけた】
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by hechimayakushi
| 2022-04-12 22:22
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2022年 03月 14日
『私説法然伝』(85)法然がくる⑫ 先月号では法然がくるということで、俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)について書きました。今月号はその続きについて書きます。 【俊乗房重源の仕事としてはまず「奈良の大佛」で有名な東大寺盧舎那仏像の再建から始まる。その大仕事が無事に終わるのが文治(ぶんじ)元年(一一八五年)の事であり、開眼法要には後白河帝が開眼の筆をとったという。そして次に大佛殿の再建である。その大事業のさなかに重源は法然上人を東大寺に招く。目的は重源が南宋国より請来した「浄土五祖図(じょうどごそず)」と「観経曼陀羅(かんぎょうまんだら)」を供養し、浄土三部経の講義を法然上人にしていただき、その功徳をもって源平合戦の犠牲者の弔いとしたかったようである。重源はマルチな僧侶であるが、重要視していたのは念佛であり、本人も念佛聖であったので法然上人をもって一大事業の締めくくり、そして日本史上最大級の戦乱の締めくくりとしたかったのであろうか。文治六年(一一九一年)または建久(けんきゅう)二年(一一九一年)とも言われるが、法然上人は東大寺において南都の僧侶達の前で自らの信じるところを講説されたという。 伝記によれば、当然の如く大成功であったと記されているが、重要な点は大原問答と同じく学僧つまり現代風に言えば学識経験者が聴き波乱なく講説を終えている点である。学僧が集まる場で話しても、問題が無いほど論理的整合性があったと考えられる。それがどういう意味かと言えば、具体的に何を話したのか、という点よりも法然上人が話された内容が結果論として名だたる学僧も納得するレベルの話であったという事である。法然上人という人物の伝記が決して誉め称えるために有りもしない事を伝えているわけではない、という事がこういった事実から浮かび上がってくる。 そして重源という人と共に一つの大イベントを成功させたという事実でもある。その関係性はある意味でビジネスパートナー的な面もあり、ギブアンドテイクのような面があったとも言える。だが法然上人という人物は単純に人気取りなどの為に行動していたわけではなく、かと言って単なる遁世僧でもなかった。「こころざし」があったからこそお堂の外へ飛び出されていたのではないだろうか。そして世間というものに飛び込まれたのではないだろうか。その結果として「法然がくる」ことで確実に世界は変化していったのである。】 法然上人の「こころざし」とは何であったのでしょうか?その点を解明していくには、やはり歴史的な事実の積み重ねから読み解く事が一つの方法だと思います。
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by hechimayakushi
| 2022-03-14 21:55
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2022年 03月 14日
『私説法然伝』(84)法然がくる⑪ 先月号では法然がくるということで、後白河帝の崩御について書きました。今月号はその続きについて書きます。 【俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)という念仏聖がいた。この時代の傑物の一人とも言うべき僧侶であった。そしてその重源は法然上人とお互いを尊敬する関係性であったことは間違いないと、各伝記などから伺い知る事ができる。 東大寺の再建計画は治承(じしょう)五年(一一八一年)から始まっている。責任者に藤原行隆(ふじわらのゆきたか)が後白河帝により任命されている。法然上人の伝記によれば藤原行隆より法然上人が東大寺再建のための資金集めの責任者「大勧進職(だいかんじんしょく)」になるように「オファー」があったそうだが、法然上人はその任を辞退したと伝えられている。代わりに法然上人は重源その人を推薦したという。藤原行隆は法然上人の師の叡空上人の弟子であったという。さらに法然上人の兄弟弟子でもあり弟子ともなる法連房信空の父であった。法然上人と関係性があったのは事実だが、大勧進職を法然上人にオファーしたのはフィクションの可能性が高いと言われる。だが、不思議とそれぞれの当事者が縁でつながっているのである。無論、重源もまた不思議な縁で繋がっているのである。 重源は元は紀(きの)氏の出自で、真言宗醍醐寺で出家する。その人生はまさに破天荒とも波瀾万丈とも言える。「入唐三度上人(にっとうさんどしょうにん)」と自称したように、南宋国へ三度渡り、臨済宗を立てた栄西禅師らと共に帰国している。南宋では妙智従廊(みょうちじゅうろう)という禅僧から寺院の修理や再建のための寄付集めや活動の技術、つまり「勧進」の技術を学んだのである。帰国後は学んだ勧進の技術で寺院の復興や修繕活動を始める。その過程で清盛や後白河帝ともつながりを持ち、さらに木材の流通等の事情通ともなる。つまり建築土木の知識から木材などの資材管理の技術、さらに金銭管理の技術まで幅広い技術を持った当代第一の勧進僧となったのである。さらに重源は南宋でスカウトした様々な技術者を従えた専門家集団を形成していた模様である。その中に陳和卿(ちんわけい)という南宋の技術者がいた。彼はその技術を駆使して東大寺の大佛の再建に尽力した。重源が居なければ東大寺の再建はなし得なかったであろうが、それは彼の持つネットワークの広さと、彼が南宋に渡り身につけた技術とスカウトした技術者集団の力によるものである。かの西行法師もまた重源のネットワークにおける協力者の一人であり、頼朝はスポンサーの一人であった。彼らは皆どこかで縁があり繋がりがあったのである】 俊乗房重源という稀代の僧侶は今風に言えば海外帰りのベンチャーIT企業のやり手社長という感もある不思議な方です。その人脈と技術は今の時代こそ必要な能力かもしれません。日本史におけるマルチ人間のナンバーワンでしょう。
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by hechimayakushi
| 2022-03-14 21:54
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2021年 12月 31日
『私説法然伝』(83)法然がくる⑩ 先月号では法然がくるということで、九条兼実について書きました。今月号はその続きについて書きます。 【建久(けんきゅう)三年(一一九二年)後白河帝崩御される。白河帝を祖父に持ち、鳥羽帝を父に持ち、三代に渡って絶大な権勢を誇ったまさに「治天の君」であった。院政というものの実質的に最後の時代でもあり、平家と源氏という武家の時代のはじまりでもあり、そんな時代の変化の中で「日の本一の大天狗」とも言われるほどの老獪さと絶大な政治力を誇った稀代の存在であった。 兼実の日記『玉葉(ぎょくよう)』にはかつて信西入道が後白河帝を評した言葉の記録がある。後白河帝は中国や日本において比類なき「暗主(あんしゅ)」=暗君だが、一度やると決めた事は必ずやる実行力と一度聞いた事は忘れない記憶力は実に凄いとある。かなりの毒舌だが、よほど強烈な個性の持ち主であったとわかる。また兼実は鳥羽帝と後白河帝を比べて鳥羽帝の失敗は美福門院得子(びふくもんいんなりこ)にすべてを与えた(八条院領)ことであり、それに比べて後白河帝はそういう失敗をしない人だと評している。また佛門への帰依の姿を褒め称え、人柄は慈愛に満ち溢れていると絶賛している。しかし延喜(えんぎ)の時代の良き政治が失われたのは残念だと書いている。つまり政治的には酷評なのである。 頼朝には「日の本一の大天狗」という歴史に残る評価を残されているが、頼朝と後白河帝との会談の結果、一応の平和が今後三十年続くことになる。頼朝は対武家において妥協は一切無かったが、「中央」=後白河帝に対しては文句を言いながらもその秩序そのものへの挑戦はしなかった。頼朝にとっての「鎌倉幕府」とは東国における「王権」としても良かったが、後白河帝との会談の結果生まれた建久の平和体制とは、歴然とした日本型「秩序」であった。だがそれはこの時点で頼朝が本来的に目指したものではなく、やはり頼朝は頼朝である。まだまだ腹の中に隠し玉を持っていた。そしてその隠し球が後々の兼実の政治生命に響くことになる。 建久三年三月の後白河帝の崩御以降の政治は極めて円滑に進む事になる。兼実主導の朝廷の政治は反対派を生み出しても後白河帝という圧倒的な存在を失う事でしばらくは平穏となる。そして兼実の弟である慈円が天台座主となり、政教の安定化が進む。これは実に京の都にとっては重要な事であった。政治と宗教が密接に関係する時代において政治の安定と宗教の安定は社会の平穏の為に不可欠であった。その象徴となる出来事が戦乱で焼け落ちた興福寺と東大寺の再建である。南都は藤原家の本拠地の一つでもあり、宗教の本拠地でもある。そして法然上人もまた、それらと無関係ではなかった】 後白河帝の時代が終わり、いよいよ「鎌倉時代」となります。「鎌倉幕府」は一一九二年に始まったわけではない、と今の教科書にあるそうですが、事実を見れば後白河帝崩御こそがそのはじまりとも言えるのではないでしょうか? 以下次号に続く(征阿)
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by hechimayakushi
| 2021-12-31 23:52
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